優しい胸に抱かれて

だから、不思議と涙は流れなかった。


『主任…』

すごく声が聞きたいと思った。


彼はこうなることがわかっていたのかもしれない。だからあんなこと言ったんだろうか。

電話しろよって言われたからじゃない、優しさを利用しているわけじゃない。

踏み入れられたくないくせに、知られたくないくせに。

夜中に迷惑なのはもちろん理解していた。相手は上司だ、さっきのは社交辞令だ。普通なら頼らない。


それでも私の指はスマホの画面をなぞっていた。

夜中だろうと、上司だろうと。優しさに付け込んでいたとしても。この時、声が聞きたいって頭に現れたのは彼だった。


耳に当てたスマホから届いた彼の声は少し掠れていた。寝ていたのかもしれないと、慌てて切ろうとした。

『…もしもし?』

『主任…』

暖かい彼の声で涙が出そうになった。

『どうした?』

『…何でも、ないです。夜中にすみませんでした。おやすみなさい』

もうこれで十分だった。声が聞けただけで満足して終了ボタンを素早く押した。

ドギマギする胸を押さえ、息を吐いた。すっかり冷え切った体から吐き出された息は、白く濁らなかった。


持っていたスマホが突然震えて、落としそうになる。寒さでかじかんだ指が震えているからだって、錯覚だと思っていた。

でも、今度はディスプレイに表示された名前にびっくりして、やっぱり落としそうになった。

『主任…』

通話のアイコンを押すのが躊躇われる。一度躊躇うと押せなくなった。長い間震えていたが、次第に切れた。

切れて、またスマホが震えてを4回繰り返した。感覚のない指が震えて益々押せなくなった。

5度目で、これ以上続いたら泣き出してしまいそうだったから、やっと押すことが出来た通話ボタン。

『はい…』

『はい、じゃないだろ? やっと出た』

って笑うから、視界がぼやけてくる。

『どこにいるの?』

『…大通です。テレビ塔の前…』

『わかった、なるべく動かないでそこにいて』

来て欲しいとは言ってないのに、全てを察した彼は『すぐ行くから』と、電話を切った。
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