オフィスのくすり
 

 
 帰り道、井上のホテルの前を通ったが、そこには寄らずに、住宅街を歩いた。

 月を見上げ、随分、気持ちがすっきりしている自分に気づく。

「仕事は確かに楽しいけど、それだけじゃ、やっぱり駄目かーー」

 ひとりそう呟いた。

 恋愛よりは頑張りが結果に結びつきやすい分、のめり込んでしまいがちだが、井上が言うように、それだけじゃ煮詰まってしまう。

 なんの発展性もない、過去の話だが、井上が好きだったと言ってくれて、やはり、嬉しかったし、心が浮き立った。

 他人の恋心の激しさに感情を動かされもした。

「やっぱり、恋も必要なのかな?」

 この歳になって、こんな少女のようなことを改めて思うなんてーー。

 そう苦笑しながら、寺の前で足を止めた。

 門を見上げ、ひとつ息を吸う。

 覚悟を決めて、この玄関を開けても、またすぐに自分は飛び出してしまうだろう。

 それでも、何度でも、この扉を開ける勇気を、今日はもらった気がするから。

 私は門を潜り、石を踏んで玄関に辿り着く。

 まるで自分を拒絶するように重い木の引き戸に手をかけた。

「ただいまー」

 せめて明るい声を上げ、何事もなかったかのように顔を覗けてみせる。
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