ほとんどパラダイス
「わざわざ言わんでもわかるわ。そんなもん、言うたらあきません。もちろんあらいざらい言うてしもたほうが、やったモンは楽やろけどな、言わんでええことや。余計なこと、言うたらあかん。学美ちゃんは、そんなにきれいでもてるんやさかい、放っといたら虫ついて当たり前や。どーんと構えとき。むしろ、他に男はなんぼでもおるけど、仕方なく戻ってやった!ぐらいの気持ちでおり。」

何となく、松尾先生という狸にも、おかあさん狸にも、私も狸になれ、と説かれているような気がした。
私に、できるだろうか。
そういや、野田教授にも処世術を身につけろと言われたっけ。
気が重いな。
自分がいかに不器用な人間か、思い知らされてる気がする。
恋愛も、結婚も、就職も、ご縁。
でも待っていたって何も始まらない。
自分で考えて、自分で行動して、自分でつかみ取って、自分で責任を取らなければいけない。
そんな強さが、私にあるのだろうか。
なんだかんだで、流されてしまってるのに……。

「これから大阪行かはるの?」
おかあさんに問われて、私は返事に窮した。
「悩んでます。楽屋を訪ねるのも抵抗あるし。出待ち、しようかな。」 

私がそう言うと、おかあさんは言った。
「ほな、うちで待っててもいいし、夜の部のチケット1枚あるさかい見て来はってもいいし。」

「うちって……上総(かずさ)ん、今夜は京都でお呼ばれか何かですか?」
「かず坊が昔習ってた踊りのおっしょさんが夜の部を観劇しはるんやわ。夜は、うちの座敷でお食事。……私も一緒に観劇するはずやってんけど、今のかず坊の舞台、見てられへんわ。」
おかあさんは悲しそうにそう言って、戸棚の引き出しからチケット袋を出してきた。

「学美ちゃんにあげます。隣はおっしょさんや。挨拶しといで。」
「え!!いや、そんな、いきなり初対面で話しかけられません!」
慌てて両手をぶるぶると振った。

けど、おかあさんはスパルタだった。
「ええから、行ってきよし。場慣れしといで。……それにな、今のかず坊が甘えられるのも、かず坊に厳しくハッパかけられるんも、学美ちゃんとおっしょさんだけやと思うわ。今後の相談してきよし。」

場慣れって!
もしかして、私、役者の嫁修業をさせられちゃうのかな。
怖い……おかあさんの指導は怖すぎる。

「そや、その格好では行かんといてな。着物貸したげるさかい、それ着て行きよし。」
「こんな大汗かく季節にお借りするの、心苦しいです。」
慌てて断ったけど、やっぱりおかあさんにはかなわない。

「かまへん。クリーニング出すさかい。たっぷり汗かいといで。」
そう言って、奥の箪笥部屋から藍色の紗の着物を出してきてくださった。
白い絽の帯と合わせると、ものすごく粋な気がした。

「おかあさん、久しぶりにお化粧してもろていいですか?」
自分の下手なメイクじゃなく、シャキッと武装したかった。
わずか15分後には、匂い立つようなべっぴんさんの完成。

「化けた化けた。やっぱり化粧映えするんですねえ、私。ありがとうございます。」
「よし、ほな、行っといで。ちゃんとおっしょさんを楽屋に案内して、かず坊と一緒に帰っといでや。待ち。切り火したげよ。」

おかあさんはそう言って、握り拳より少し小さい黒い石の塊を、銀色の定規のような金板に打ち付けた。
< 100 / 150 >

この作品をシェア

pagetop