ほとんどパラダイス
「……すみません。」
謝ることしかできない私に、お家元は言った。
「しはらさんが謝らんでも。……まあ、仲良ぉしてあげてください。辛抱強いけど孤独な子ぉやさかい。仲直り、もうしはったん?」
「いえ、これからです。」

お家元がほほ笑んだ。
「そう。楽しいところに居合わせたのね、私。ふふふ。」

「……楽しいかどうかはわかりませんが。修羅場かも。」
気づくと、お家元の向こうのお嬢さんが目を輝かしてこっちを見ていた。
何となく会釈をしたら、彼女も慌てて頭をぺこりと下げた。

幕が上がると、昨日と同じように上総(かずさ)んは背景のように座っていた。
……かつては座っているだけで歌舞伎、と言われたのに、まるで木偶(でく)の坊。
落ちくぼんだ生気のない瞳はずっと虚(うつ)ろだった。

一幕が終わると、芳澤流のお家元は無言ですっくと立ち上がった。
「しはらさん?行きましょう。明子ちゃんはココにおり。次の演目までに戻れへんかもしれへんし。」
明子ちゃんと呼ばれた若い女の子は残念そうな顔をしたけれど、
「行ってらっしゃい。」
と、ひらひらと手を振って、私に会釈した。

私は慌ててお家元を追いかけた。
てゆーか、私が案内しなくても、お家元はよくご存じらしく、一旦事務所や楽屋口に出ることもなく、直接楽屋の廊下に出られるドアの暗証番号を押した。

「和成ちゃん、安定剤かなんか飲んではる?」
「たぶん、そうだと思います。」
お家元はため息をつかれた。
「そんな状態で舞台に立つって、どれだけつらいんやろ。あんな真面目ぇな子ぉが。かわいそうに。」
「……すみません。」
ついまた謝ってしまった。

「ココやな。こんにちは。芳澤です。お邪魔します。」
お家元は、上総んが今回入ってる楽屋へと、すんなりと入ってしまった。

さすがに付いて入っていけず、私の足は廊下で止まってしまった。
今回は2人で小さな小部屋を使っているらしい。

暖簾の隙間からそっと覗いた。
上総んは浴衣に着替えて、さっきの舞台化粧を落としていた。
お家元は上総んの腕や背中をペシペシと叩いていてダメ出ししてたけれど、上総んは困った顔をしてるだけだった。
……筋肉、落ちちゃってる。
上総ん、痩せた。
もともと過度な日焼けをしないように気を遣っていたけれど、青白さが際立って見えた。

化粧を拭き取った上総んは、次の化粧を始める前に白い袋を開けた。
たぶん、山崎医師に処方してもらったきつ~いお薬を補給するのだろう。
私はゆるいのも拒絶したけれど、上総んは中程度のでも足りなかったらしくワイパックスを飲んでいると聞いていた。
薬の全てを否定するわけではないけれど……私の足は勝手に踏み出し、楽屋へズカズカ上がり込むと、上総んの手から薬の袋を取り上げた。

頭の働きが鈍くなってるらしく、上総んはけだるげに私を見上げて、そのまま固まった。

「おー!しはらさん、ナイス!」
お家元がそう言って拍手した。
「和成ちゃん。しんどいんを薬に逃げてんと、芸に昇華できんか?」

上総んの耳に、お家元の言葉がちゃんと届いてるのかさえ疑問だった。
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