ほとんどパラダイス
「じゃ、頑張ってね。お昼もちゃんと食べてね。」
ホテルを出たところでそう言って別れようとしたけれど、上総(かずさ)んは目に見えてガッカリしたようだ。

「えー。学美、来てくれないの?」
「だってチケットないもの。楽屋に居座るわけにもいかないし。松尾先生のとこにいるわ。着替えたいし。」
テンションの下がった上総んがかわいくて、ちょっと笑ってしまった。
「夜は一緒に夕食たべよ。芳澤のお家元にも一緒に行く。だから、がんばって。……手抜きしちゃダメよ。ツィッターで松尾先生がチェックしてるから、バレバレやしね。」
笑ってそう言うと、上総んは肩をすくめた。

上総んを見送ってから地下に降りようとしばらく見ていた。
ら、振り返った上総んと目が合った。
くしゃっと綺麗なお顔が歪む。
勢いよく上総んが駆け寄ってきて、私を抱きしめた。
「ありがとう。」
それだけ言って、上総んは、今度は一目散に走ってった。



地獄の釜のような蒸し暑い京都を発ったのは、8月の最終週。
風が通る関東平野は涼しくて、こっちに人が移り住んでったことに何となく納得してしまう気がした。

帰り着いた夜から早速、上総んは翌月のお稽古に詰めた。
……と言っても、来月からまた、ほぼ背景の役。
とりあえずは長きに渡った不調の謝罪に回ったらしい。
ま、一から出直し。
がんばれがんばれ。

私は翌日、恐る恐る院生研へと向かった。
どんな顔して峠くんに逢えばいいのかわからなくて、緊張し過ぎてお腹が痛くなってきた。

あかん。
先に、野田教授を訪ねよう。
日持ちはしないけれど美味しい京都の阿闍梨餅を手土産に、野田教授の研究室のドアをノックした。

「はい。」
「紫原です。失礼します。」
中からドタドタガチャガチャ賑やかな音がする。
ドアを開けると、野田教授と峠くんが、めちゃくちゃ不自然に何かを隠したようだった。

……てか、早速、峠くん。
顔がひきつる。

「おー。紫原。中野先生が褒めてらしたぞ。お前の発表を聞きに、わざわざ大会に臨席してくださるそうだ。でかした!それに、未調査の茶器を見せてもらってきたらしいな。発表とは別に報告書も書いていいぞ。中野先生のお墨付きなら、全国誌2連発も有りだ。」
野田教授は私の無沙汰を叱るどころか、そう褒めてくれた。
中野大先生様々ってわけだ。

「ありがとうございます。これ、日持ちしないので早めに召し上がって下さい。それから、論文の構成を大幅に変えましたので論旨に矛盾が生じてないか見ていただけますか?」
ハッキリ言って抜かりはないが、担当教授を立ててそうお願いした。
野田教授は目を細めてうなずき、私からプリントアウトしたレジュメを受け取った。

峠くんに話し掛ける言葉を模索してると、先をこされてしまった。
「元気そうですね、まなさん。よかった。」
嫌味じゃなかった。
心からそう言ってくれてるのが伝わってきた。

やばい。
涙がこみ上げてくる。
それに、何となく日焼けして、たくましくなったような峠くん。
首筋や二の腕に言いようのないときめきを感じてしまった。
上総んとは別の、男の色気。
触れたい衝動を抑えて、返事した。
< 110 / 150 >

この作品をシェア

pagetop