ほとんどパラダイス
上総(かずさ)さんは、色紙を3人に手渡してから時計を見た。
「そろそろ、解説終わる時間ですね。ロビーまでお送りいたしましょうか。」

松尾教授は名残惜しそうに、上総さんに握手までねだって別れを惜しんでいた。

峠くんは、何度も色紙を見ていた。

上総さんは、

<美を愛する峠一就君江>

と記し、峠くんの色紙にだけ朝顔と風鈴とすだれの絵まで描いた。
一見、全くうれしそうに見えなかったけど、峠くんは何となく喜んでいるように感じた……ずっと見てるし。

「字ぃだけじゃなくて、絵ぇまで御上手ですねえ。」
松尾教授がそう言うと、上総さんは苦笑した。
「必要にかられてお稽古してるんですよ。本当は、自分の名前と季節の図柄しか書けません。」

……なんて仰ったけど、それぞれに書いてくれた名前も普通に上手いし。
謙遜が美徳な世界なんだろうか。

そんな風に思って歩いていると、上総さんが私の腕を引いた。
「夜、食事行かない?」

……え……

誘われてしまった。
どう断ろうかと困っていると、上総さんは先手を打った。
「松尾先生。学美をご飯に誘ってもよろしいですか?」

松尾教授は、上総さんと私を何度か見比べて、力強くうなずいた。
「いいわよ。でもこの子、見たまんま真面目な子だから火遊びの相手には向かないけど。」

「先生!」
抗議しようとしたけど、上総さんは携帯電話を出してどんどん進めてく。
「ボスのお許しが出たよ。番号教えて。……まだこれから巡検続くんですよね?今夜は何時に解散でしたか?」
「18時に、東京一行がホテルに入って解散よ。明日は9時集合。あ、紫原は実家住まいだから、ちゃんと終電までには帰してね。」
「わかりました。学美、番号。」

……納得いかない。
憮然として黙って抵抗してると、松尾教授が勝手に教えてしまった。
信じらんない!

解説が終わったらしく、客席の扉が開いた。
涼しい顔で上総さんは去って行き、私たちは再び東京御一行様と合流した。

次の行き先は、企業の持つ美術館。
私は松尾教授に付き従いながら、人目を盗んでは、ぶりぶりと文句を言い続けた。

松尾教授は、さばさばと言った。
「いいじゃない。これでも心配してたのよ。紫原、このままじゃ一生独身かもって。上総丈、かっこいいでしょ?見とれたでしょ?悪い人じゃなさそうだし、何よりも、女慣れしてるから安心。恋愛ごっこしてらっしゃいよ。」

はあ?

「よく知らない男と2人きりなんて、嫌です。」
キッパリそう言ったけど、松尾教授はアハハと快濶に笑った。
「よく知ってる男じゃあ、もっとあかんでしょ?」

……そうかもしれない。

語学のクラスでも、ゼミでも、他の人が子供か馬鹿かに見えてしまうのだ。

「でも、どうして上総さんなんですか?峠くんもイケメンと思いましたよ?濃いけど。」
どうしても抵抗を示したくて、そんなことまで言ってしまった。

「……どうも。」
すぐ後ろにいたらしく、峠くんがボソッと言った。

「わ!びっくりした!別に褒めてないし。早く行った行った!夜、レポート書くんでしょ!油売ってる暇ないわよ!」

気恥ずかしくて慌てて私は、のっそりしてる峠くんを追い立てた。
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