ほとんどパラダイス
……南座や歌舞伎座と違って、松竹座の1階両サイドは桟敷席とは言えない。
テーブルもなく、椅子が横向いて並べてあるだけなのだ。

でも、歌舞伎に慣れ親しんでいる松尾先生は、かたくなに「桟敷席」と言っているようだ。

「紫原?……落ち込んでも、倒れてもダメよ。ちゃ~んと最後まで見なさい。最後の舞踊の上総丈がどれだけ不様(ぶざま)かもね。」
松尾先生は本当に容赦なかった。

私は初めて、罪悪感に震え出した。
「上総んが、役者として大成してほしくて、私じゃダメだと思って、別れたんです。なのに、こんな……」
震えが止まらない。
悪評を聞いても、一時的なものだと思っていた。
いつか諦めてくれる、前向きにがんばってくれると、信じていた。
まさかこんなにも簡単に、役者生命が危うくなるなんて……。

松尾先生の言う通り、最後の舞踊は驚くほどひどかった。
足も腰も腕もふらふらと定まってなかった。
あんなにも一生懸命取り組んできた舞踊なのに。
涙が止まらない。
こんなはずじゃなかったのに。
どうしよう。
どうすればいいの?
私が上総んのもとに戻れば、立ち直ってくれるの?
……峠くん、ごめん。
私、今の上総んをほっておけない。
どうしても、このままじゃ、いられない……。

「上総ん、客席を全く見てませんでしたね。」
地下鉄から京阪に乗り換えて落ち着いてから、ぽつりとそう言った。

松尾先生はジロリと私を睨んだ。
「あんたがソレを言うか?先月の舞台では逆に客席に紫原を探し過ぎて舞台に集中できなくなったらしいわよ。今月は失望感いっぱい。そのうち、『保名(やすな)』になっちゃうかもね。」

保名。
恋しい女性の死を受け入れられず気が狂ってしまった美貌の男性の舞踊。

「いや、私、死んでませんし。」
思わずそう言ったけど
「そういう問題じゃない!」
と、怒られた。

「で?上総丈を放置してあんな風に壊したくせに、紫原は何でそんなに落ち着いてるの?」
イチイチ棘のある言い方をするなあ。
このヒト相手に同情を買えるとは思わないけれど、一応釈明はしとこう。

「いや、本当に、私もけっこう大変だったんですよ。きっかけは初期流産とか化学的流産とか言う、着床するかしないかの流産の貧血で倒れたみたいなんですけどね。上総んにも食べ物にも拒否反応起こすようになって、食べられんくなって……」

松尾先生は、首をかしげた。
「ふうん?もしかして、新しい男、もういるの?」

ドキーン!とした。
「いや、新しいというか……同じゼミの先輩後輩同期に支えてもろてます。料理は峠くんが作ってくれたものなら食べられるようになって……」

「峠くん、ね。なるほど。紫原、最初から峠くんに惹かれてたもんね。そっか。峠くんか。彼ならしょうがないか。」
何も言ってないのに、松尾先生は私の新しい男が峠くんだと理解したらしい。

「……何でわかるんですか?」

「愛情たっぷりの手料理で元気になったんでしょ?自然な流れじゃないの?」

山崎医師にもそんな風に言われた。
峠くんと私って、けっこう似合ってるの?

「あまり覚えてないんですけど……初対面の峠くん。上総んが強烈過ぎて。」
私がそう言うと、松尾先生はちょっと笑った。
< 93 / 150 >

この作品をシェア

pagetop