となりの専務さん
駅まで向かう途中、何度かどこに行くのか尋ねたけど、専務は教えてくれなかった。
これ以上粘ってもたぶん教えてくれないし、到着までガマンしようと思い、私はその質問をやめた。


代わりの話題というわけではないけれど。

「初めて会った時もその格好でしたよね。メガネはかけてませんでしたけど。あれも変装だったんですか?」

と、私は街に向かう途中の電車の中で、専務に尋ねた。
休日だから電車の中は少し混んでいた。満員というほどじゃないけど、座席には座れず、つり革に掴まって振動に揺られていた。


「まぁね」

専務は無表情で窓の外の景色を見ながら答える。



「あの日も誰かといっしょにいたんですか? 会社の人に見られて誤解されたら困るような人と」

「あの日はひとりだったよ」

専務はずっと景色を見つめているので、私もなんとなく、同じく窓の外に目を向けた。普段はほとんど乗らない、会社に行くのとは逆方向の路線。見慣れない景色が視界に映る。


「じゃあ、なんであの日もこの格好だったんですか?」

「会社の近くに用があってあそこにいたんだけど、誰かに見つかったら面倒だなと思って。メガネまではいらないかなと思ってかけてなかったんだけど」

「誰かって、もしかして家の人とかですか?」

「そうそう。家出中には違いないからね。べつに誰にも探されてはいないけど」

「そうでしたか」

「ていうか、俺のことより自分のこと気にしたら?」

「え?」

ふと専務の顔を見上げると、さっきまで景色を見ていたはずの専務は私を見ていて、私が振り向くのと同時に専務の右手が私の髪に伸びてきた。


「ひゃ……?」

「君こそ、髪はねてるよ」

「え、は、はね……」

「うん、これでよし。女の子なんだからさ、いつでもキレイでいないと」

ましてや俺たちは化粧品会社で働いてるんだから、と専務は言った。


び、びっくりした。男の人に髪を撫でられるなんて(正確にはなでられたわけじゃないけど)初めてだったから……。

専務が髪に触れる感触は、とてもやさしいものだった。
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