お帰り、僕のフェアリー
「お二人とも、歌劇団をご存知なんですね。そうなんです。初舞台生は、口上とロケットがメインなんです。なので、私がアラゴンの詩集を、それも原書を読むのはおかしいことなんです。」
おかしい、と自嘲的な静稀の様子が引っかかった。

「別におかしいとは思わないけど。役付きじゃなくても、てか、出演者じゃなくても、観劇するファンや客でもアラゴンなんてマイナーな題材なら、予習していくのは普通じゃないかい?しかも詩は、原書じゃないと味わえないから、静稀はとても正しいと思うよ。」

僕がそう言うと、静稀は、両手で口を覆い、大きく見開いた瞳をうるませた。

「私、嫌味じゃないですか?」
そう僕に尋ねる静稀の両目から、ほろほろと涙がこぼれ落ちた。

嫌味、って言われたんだ。
同期生か先輩から、かな?
かわいそうに。

僕は、ハンカチを取り出し、そっと静稀の頬に当てた。
濡れた黒い瞳が僕を見上げている。

たまらないな。
初対面でなければ、いや、由未がいなければ、僕は静稀を抱きしめていたと思う。

僕は前かがみになり、静稀の目線と高さを合わせる。
「逆だよ。静稀が嫌味を言われたんだよ。でも、言いたい人には言わせておけばいい。静稀は正しいことをしようとしている。歌劇団にいるのなら、どんな勉強も無駄にはならないよ。」
そう言いながら、静稀がわざわざ歌劇団の本拠地から少し離れた図書館に来たのも、周囲の揶揄を気にしてのことだろうと、僕は推測していた。

こんなに綺麗な子、どこにいても目立つだろうけど、歌劇団の近くでは尚更なんだろうな。
苦労してるんだろうな。

ついつい、僕は手を伸ばして、静稀の頭を撫でてしまっていた。
静稀の涙が止まっても、僕は彼女に触れていたかった。

「紅茶、入れ直してきまーす。」
由未が、変に気を回して、そっと部屋を出ていく。

おいおいおい。
この状況で二人きりにされても……
僕はそっと静稀から離れて、微笑みかけた。

「静稀は、歌劇団では、何て呼ばれているの?」
「榊高遠です。」

さかき、たかとお。

平仮名や、いわゆるキラキラネームが増えているイメージなのだが、また、硬い名前を付けたものだ。
静稀の生真面目さが表れているようで、僕は笑いを噛み殺した。

「じゃあね、ここでは榊高遠くんじゃなくていいからね。いつでも遊びにおいで、小堀静稀ちゃん。」

僕がそう言うと、静稀はうれしそうに微笑んだ。
まるで花が咲いたかのように、華やかに。
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