ヒロインになれない!
そうそう。
夏休み中は毎朝、私も書を習った。

以前からお願いしていた「かな文字」を教えてほしかったのだが、物事には順序があるとのことで楷書・行書・草書……と、先は長い。
でも、書のお稽古の時の恭兄さまは、いつもより少し、あまあま度が低くて真剣でかっこよかった。

私は、自分のお稽古よりも、恭兄さまの書いてらっしゃるところを近くで見られることがうれしかった。

たまに上手く書けると、恭兄さまが私の口に、あの懐かしい「おいとぽい」を入れてくれた。
京都で買ってきたらしい。

……昔、恭兄さまと逢えなくなってから、私は父にお願いして「おいとぽい」を買ってもらったことがあった。
でも、恭兄さまにいただいたものとは別のお菓子のように感じてがっかりしたのを覚えている。
当時は、自分で食べるのと、人に食べさせてもらうのの差かな?と、兄にお願いしてわざわざ口に入れてもらったりもしてみたのだが。
今回やっとその差がはっきりとわかった。

恭兄さまのまとってらっしゃる、馥郁とした墨の香りこそが、大事なファクターだったのだ、と。
もしかしたら、恭兄さまご自身の存在の意味も大きいのかもしれないが。
いずれにせよ、私は幼いあの日の至福を10年ぶりに取り戻した。
身も心もとろけそうな、優しい甘さに鼻を鳴らす幸せな時間を。

2学期が始まった。
そろそろ進路を決めなければいけない……内部進学なら2週間後に願書〆切りだ。
何の目標もない私は、決めかねていた。

成績は、おかげさまで学年2位。
全国模試でも、今のところ、たいていのところに行けそうな順位に付けている。
でも、明確な意志がない。

知織ちゃんが行くから、恭兄さまが行ってたから、家から歩いて通えるから……そんな理由で東大を受験するのって、真剣に受かりたい人に失礼な気がして。
その日も、進路相談室でぼんやりと赤本の背を眺めていた。

ふと気付くと、私の携帯電話が未登録の番号を点滅させて震えていた。
……この番号、前に見たことある。
とりあえず出てみると、女性の声で

『……ゆみさんですか?』
と聞かれた。

「はあ。」
誰かわからないので、とりあえず返事する。

電話の向こうで息を飲む音が聞こえるような気がした。
続いて、緊張でこわばった声で一気に要件を伝えられた。

『突然すみません。佐々木和也さんのことでお話があります。逢ってもらえませんか?』

……はあ。
誰?
和也先輩と花火に来てた人?
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