草食御曹司の恋
彼に限って嘘を付くとは思えないのだけれど、私はほぼ反射的に口走っていた。

「えっ、あの、噂ではご結婚されると聞いたのですが…」
「誰から?もしかして、うちの会社の誰かかな」

こくんと頷く。面と向かって話したわけではないけれど、女子社員の会話を偶然聞いたのだから、間違いではない。

「それなら、君が聞いたのは、弟の話じゃないかな。弟は2年前に従姉妹と結婚したんだ。ほら、君も一度会ったことがあるだろう?仕事中に訪ねてきたことがあったから」

覚えてないかな?と首を傾げる彼を見て、あの日から一度も忘れることのなかった室長の和やかに話しかける顔と、女子社員の会話を思い出す。

あのとき、確かに私は聞いたのだ。
未来の社長夫人候補がやってきたと。

でも、こうも言っていた。
彼が将来社長にかるかはまだ分からないと。

冷静に考えてみれば、未来の社長候補は彼の他にもいたのだ。それを室長の事だと決めつけて、今日まで思いこんでいたのは、絶妙なタイミングで、彼女が訪ねてきたからだろう。

そして、誤った情報がインプットされた私には二人が特別に親しそうに見えた。冷静に思い返せば、幼い頃から知り合いの従姉妹と親しいのは、当然かもしれない。

ドクドクと心臓に血液が流れ込んでくる。
自分の勘違いを勝手に恥じて、おそらく赤くなっているであろう顔をゆっくりと上げれば、彼と視線がパチリと合った。

こちらを不思議そうに見つめている彼は、私が室長室で一緒に仕事をしていた無表情なアンドロイドではなく。
初めて出会った日、緊張しながらホテルの日本料理店で向かい合った時のような自然体の彼だった。
そのことが無性に嬉しくて、私は溢れる感情を堪えきれずに、気付けば口を開いていた。

「好きです。ずっと好きでした。出来ることなら、もう一度初めて会った日に戻りたかった」

本当の熊澤錬が、今私の前にいる。
そう思ったら、とても言わずにはいられなかったのだ。
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