草食御曹司の恋
下心はなかったと言えば、嘘になる。
俺が博之の部屋から移った先は、シンガポールの中でも、伝統ある世界屈指の名門ホテルだった。
最初から博之が帰ってくれば部屋を空けるつもりで、本当はもう少しカジュアルなホテルを予約していたにも関わらず、客室の全てがスイートルームだというそのホテルに、キャンセルがないか問い合わせたのは彼女へのプロポーズが成功した翌日だった。
運良く2泊分の空きがあると聞いて、慌てて予約を取り付けた俺は、誰に聞かせるでもない言い訳を心の中で必死に繰り返した。
せっかくシンガポールに来たのだから、このホテルが発祥だというトロピカルカクテルを飲まねば。
日頃の溜まった疲れを癒やすために、広々とした部屋でリラックスして過ごすのも悪くない。
たまにはこれくらいの贅沢をしてもいいだろう。
世界随一と言われるバトラーのサービスを受けてみるのもいい。
聞かれてもいないのに、言い訳をポンポンと思い浮かべながら、その一方でそんな自分自身に苦笑する。
本音は迫り来る帰国の時まで、彼女と一緒に過ごしたいだけだ。
こちらでの滞在時間が終われば、また彼女とはしばらく離れなければならない。
願いが叶う前とは違う苦しさがある。
離れたくないと言うことが出来ない代わりに、今日は帰したくないと彼女にささやかに告げるだけだ。
嫌だといわれれば、すぐに彼女を家まで送ろうと考えていた。
夕食は彼女もお気に入りだというプラナカン料理の店へ行き、店を出てからは夜景に誘われるように二人で街を歩いた。
他愛もない会話を交わしながら、そっと彼女の手を握ることに成功した。
そこまでは上々の出来だったのに、肝心なひと言はいつまでも言い出せないまま。
地下鉄の駅の入口まで来たところで、彼女が「そろそろ…」と言い出した時は、思わず慌てて彼女の手を強く握りしめていた。
「もう少し付き合って欲しい」
こんなことを言ったら彼女を戸惑わせるかもしれないと思いつつ恐る恐る切り出せば、彼女は俺の予想に反してにっこりと笑っていた。
「少しだけでいいんですか?」
全てを察しているのだろう。そして、肝心なひと言を待っている。
上目遣いの彼女の笑顔に完全にノックアウトされた俺は、自分は一生使うことはないだろうと思っていたひと言を口にする。
「今夜は帰らないでほしい」
ふふっと笑って俺の手を握り返した彼女は、今度は少し拗ねた表情でこちらを見つめてくる。
「帰れと言われたら、バーで生まれて初めてのやけ酒でもしようかと思ってました」
「やけ酒?君が?」
「飲みやすくて、すぐに酔えるカクテルがあって。すぐそこのホテルのバーが発祥で…」
彼女の赤く染まる頬はそのトロピカルカクテルに似ているなと思いながら、俺は今日泊まるホテルの名を告げて、せっかくならバーに寄って行こうと彼女を誘った。