君に贈るエピローグ
流星の人
三月十六日、私は十七歳の誕生日を迎えた。その日の朝に親しくなった看護師の山田さんが、左頬のガーゼを取ってくれた。
「小川さん、今日、お誕生日ね。おめでとう!」
「有難うございます」
「今日で十七歳?若いっていいわね」
「はい。今日で十七になります。誕生日を病院で迎えるなんて、思ってもみませんでした」
「本当ね、でもきっと一生忘れられない誕生日になるわよ」
「そうですね。山田さんはお幾つなんですか?」
「私は今年で二十六。早くに結婚して今の仕事をずっと続けているでしょう?遊ぶ暇なんて、全然なかったわ」
「結婚かぁ…」
「今日も彼、くるんでしょう?」
「彼じゃないんです。ただのクラスメイトです」
「本当?この間、洗面室でシャンプーして貰ってたじゃない。何だか、恋人を通り越して、夫婦みたいだったわよ」
山田さんは冗談めかしてそう言ったが、確かに明彦には何か特別なものを感じていた。友達でも恋人でもなく、互いにもっと奥深い部分で繋がっているような感覚。目には見えない強い絆で結ばれている気がしてならなかった。
「ねぇ、小川さん。『流星の人』っていう詩集、知ってる?」
「もしかして、銀色夏生ですか?」
「そう!」
「それだったら、何度も読んでいて、ここにもあります」
私はサイドテーブルに立て掛けてある、明彦が持ってきてくれた本の中から、一冊を抜き取り山田さんに手渡した。山田さんは暫く詩集をめくっていたが、あるページで手を止めると、その一節を読み上げた。
「いつもきてくれる彼、どんな時もあなたを正しい方向へと導いてくれる『流星の人』だと思うわ」
「えっ?」
「彼のこと見失っちゃ、絶対に駄目よ!」
そう言って、ひとつウインクをすると、病室を出て行った。

午後、いつもの時間より少し遅れて、明彦はやってきた。
「誕生日おめでとう、凛子!」
そう言うと、私の大好きなパンジーの花束を手渡してくれた。
「今日はケーキも買ってきたんだ。後で夕食の時に、一緒にお祝いをしよう」
「有難う。ケーキまで買ってきてくれたの?」
「学園前の駅前に美味いケーキ屋あるだろ、あそこで買ってきたんだ」
「あのお店のケーキ、私、大好き!」
いつものようにパンジーの花を花瓶に活けながら、明彦は言った。
「ちょっと夕食前に、少し外へ出ないか?」

私達は車椅子で病室を出た。
「頬のガーゼ、取れたんだな」
「うん、今朝、看護師さんが取ってくれたの。せっかくの誕生日だからって」
痣はわずかに輪郭を残す程度で、ほぼ消えていた。
「あとは右足の怪我と、精神的な回復だって、先生にも言われたわ」
こうしていても、私は未だに記憶の全てを取り戻せずにいた。
「その看護師さんがね、明彦のことを流星の人だって言うの」
「流星の人?」
私は詩集の内容を、憶えている限り細かく説明した。
「それでね、私にとっての流星の人が、明彦なんだって」
「そんなふうに言って貰えるなんて、何だか光栄だな」
明彦は、少しはにかんだ様子で言った。
庭をひととおり散歩して病室に戻る途中、ナースステーションの前を通ると、山田さんに呼び止められた。病棟の多くの看護師が集まり、私のためにバースデーソングを歌ってくれた。他の病室からも数人の患者が顔を出し、一斉に拍手が沸き起こった。私は嬉しさのあまり、思わずその場で号泣してしまった。
「皆さん、本当に有難うございます。私、頑張って早く元気になります!」
私は深々と頭を下げて礼を言い、病室へ戻った。
「明彦、もしかして知ってたの?」
「さっき、きた時に山田さんに呼び止められたんだ」
「そうだったの」
「良かったな凛子、早く元気にならなくちゃな」
「うん。私、頑張るわ」

暫くして夕食の時間となった。今日のメニューは、白身魚のムニエルとサラダ、それとご飯に豆腐とわかめの味噌汁だった。最近は食欲もすっかり戻り、左手の点滴もすでに取れていた。
夕食後、明彦がケーキにろうそくを立ててくれ、部屋の灯りを消しふたりでお祝いをした。
「今年は病院で誕生日を迎えることになっちゃったけど、来年はもっとちゃんとしたお祝いをしような」
「ううん。これでも十分過ぎるくらい嬉しいわ」
「そうだこれ、笹井さんと矢沢さんから。小野さんは今日、風邪で欠席だったから、また今度って、矢沢さんに伝言があったってさ。あと、凛子のお母さんからも預かってきたんだ。今日はこられなくてごめんねって、言ってたよ」
博美と優衣からのプレゼントは、小さな箱に詰められた、バラのプリザーブドフラワー、母からは胸にフリルの付いた白いブラウスをプレゼントされた。
「それから、これは俺からのプレゼント」
「えっ、お花とケーキだけで良かったのに…開けてみてもいい?」
「うん、気に入って貰えると嬉しいんだけど」
包みの中身は、真新しい『十二夜』の文庫本だった。
「これ…」
「凛子のボロボロだったからさ」
「明彦、有難う!」
「うん。今日は天気がいいから、きっと星がきれいだぞ」
その後、ふたりでお祝いのケーキを食べた。

暗くなってから、私達は再び車椅子で外に出た。外はまだ三月とあって、夜はかなり冷んやりとしていた。
「凛子、寒くないか?」
明彦はそう言うと、着ていた制服のブレザーを肩に掛けてくれた。
「明彦は寒くない?」
「うん。俺は大丈夫だよ」
病院の広場は木立に囲まれており、空を見上げたが木々が邪魔をして星は殆ど見えなかった。
「やっぱりここからじゃ、良く見えないな」
「ねぇ、明彦、屋上へ連れて行って」
「えっ、だって凛子は大丈夫なのか?」
「まだ少し怖いけど、きっと大丈夫」
「そうか分かった。じゃあ、ナースステーションに行って屋上に上がれるか聞いてみよう」
ナースステーションに戻り、明彦がちょうど夜勤だった山田さんに事情を説明すると、特別に鍵を借りることができた。車椅子を病室に置いて、私はガウンを羽織り松葉杖で、明彦と共に屋上へ続く階段を上った。
「やっぱり私、少し怖い…」
「大丈夫。俺がいるから」
屋上は空気がピンと澄んでいて、先程の広場よりも更に冷え込んでいた。私達は並んでベンチに腰掛けると夜空を見上げた。
「わあっ、凄い!」
夜空には満点の星が煌めいていた。
「あの真ん中に三つの星が並んでいるのが、オリオン座。その上のあれが、双子座だよ、あっちには、ほら、乙女座も見える」
明彦は次々に夜空を指差した。
「あっ、流星だ!」
流星は東の空から突然現れ、一瞬強く瞬いたかと思うと、西の空へと吸い込まれるように消えて行った。
その時、忽然と頭の中に様々な光景が浮かんできた。それは複雑に絡み合った糸が解けて行くような感覚に似ていた。
あの土手で明彦と出逢った日のこと、それから毎朝ふたりで土手に寝転んで青い空を見上げたこと、秘密の日課…。
眠っていた記憶が、取り止めもなく映像のように溢れ出して行く。
美奈子の手編みのマフラー、そして手紙。
明彦と初めて出掛けたプラネタリウム、ふたりでお揃いのストラップを買ったこと。
そしてあの日、朋子に左の頬を叩かれ、美奈子に見られてしまったこと。
教室から飛び出した美奈子を、屋上まで必死に追い掛け、私は途中で右足を痛めた。
土砂降りの中、佇んでいた美奈子…。
「美奈子…」
私の両頬は、いつの間にか涙で濡れていた。
「どうした、凛子。大丈夫か?」
「……何もかも全部、思い出したの」
「本当なのか?」
「美奈子は?美奈子は、今どうしているの?明彦お願い、本当のことを教えて!」
私は明彦の膝を激しく揺さぶり、そう叫んでいた。
「………」
長い沈黙が続いた。
「小野さんはあの日、亡くなったんだ」
「嘘でしょう…?」
「病院に運ばれた後、すぐに息を引き取った」
「嘘!嘘なんでしょう?明彦、嘘だと言って!」
「嘘じゃないんだ…」
それから明彦は俯いたまま、何も喋ろうとはしなかった。全身から力が抜け、私の身体はベンチからずり落ちた。放心状態のまま、暫く私はフェンスの向こうに漂う闇を見つめていた。
私も美奈子のもとへ行こう。
あのフェンスを乗り越えさえすれば、きっとすぐだ…。
私は不自由な右足を引きずりながら、地べたを這いつくばい、フェンスへとしがみ付いた。
「やめろ凛子!何をするんだ」
「私、美奈子の所に行く…」
「何、馬鹿なことを言ってるんだ!」
明彦は力尽くで私をフェンスから、引き離そうとした。
「離して!」
明彦の腕を振り払い、私は再びフェンスへとしがみ付いた。
「凛子、そんなことをしても、小野さんは少しも喜ばないぞ!」
明彦が後ろから私を強く抱き締め、そう叫んだ。
「お願い、私を美奈子の所へ行かせて!」
「駄目だ、凛子が行くなら俺も一緒に行く!」
「明彦…」
私はその場に泣き崩れた。とめどなく涙は溢れ、私はいつまでも泣き続けた。
「私のせいだわ。全部、私が悪いの…」
「凛子のせいじゃない。あれは、事故だったんだ」
いつの間にか明彦の両腕の中に、私は包まれていた。
「凛子、しっかりするんだ!小野さんのことは本当に残念だった。だけど、俺達が死んだって、小野さんはもう戻ってはこないんだぞ!現実から目を逸らさずに生きて行くしかないんだ。生きろ、凛子!小野さんの分まで生きるんだ」
私の耳元でそう言った明彦の涙が、私の右の頬を伝った。

そして次の日曜日、初めての外出許可が降りた。
美奈子の墓は緑台の大きな霊園あるということだった。四十九日までにはまだ日があったが、家族の意思のもと美奈子の納骨式は既に終えられていた。
私は松葉杖を突き、明彦とふたりで緑台霊園へ電車で向かった。途中、花屋で美奈子の好きだったピンクのガーベラを花束にして貰った。
霊園の中は広大で、入口から美奈子の墓までは二十分ほど掛かった。
「凛子、その足で大丈夫か?」
「大丈夫」
私達はそれ以上、何も口にしなかった。
墓前までくると明彦は美奈子から貰ったマフラーを墓石に巻き、私は花束を置いた。
美奈子、さようなら。
私、美奈子の分まで絶対に生きるから。
いつかまた、天国で会おうね。
そう心の中で呟き、墓に向かって両手を合わせた。



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