君に贈るエピローグ
クリスマスイブ
1995年12月24日

その日に限って、朝から冷たい雨が降っていた。庭に植えてあったクリスマスローズに付いた雨滴が、まるでシャボンのように光っていたことを憶えている。
まったくおかしなものだ。
父が家を出て行く日のことを、そんなふうに憶えているなんて。
五時を少し回った頃、父と私は家を出た。
母は何も言わなかった。ただ黙々と、リビングの床に掃除機をかけ続けていた。
私は父を駅まで送って行く役割だった。
母は離婚した夫をもともと送るつもりはなかったのだろうし、何より弟の俊太郎がまだ幼稚園だったのだから、その役目を私が買って出るのは当然のことだった。

街はクリスマスカラーで華やかに包まれ、あちらこちらに赤とグリーンのネオンが輝いていた。
駅前の広場にはゆうに三メートルを超えるほどの巨大なクリスマスツリーが飾られていた。父と私はツリーの真下のベンチに腰を下ろした。父が自動販売機で買ってくれた缶コーヒーを手に、ささやかなクリスマスイブの夕暮れを迎えたのだった。
この時、私はまだ十歳。
お気に入りの白いミトンの手袋をはめた手で、不器用にプルタブを開けると、私はまだ熱い缶コーヒーを一口啜った。
「メリークリスマス、凛子。父さんからのプレゼント、受け取ってくれるかい?」
私が足をぶらつかせながらコーヒーを啜っていると、父はコートのポケットから徐に何かを取り出した。
「わぁっ、お父さん、なぁにそれ?」
「クリスマスプレゼントだよ、凛子。気に入って貰えると嬉しいんだが」
父から赤い小さなきんちゃく袋を手渡された。
「お父さん、これ開けてみてもいい?」
私がはしゃいで父に尋ねると、
「ごめんよ、凛子。父さんもう行かなくちゃいけないんだ」
父は眉間に僅かな皺を寄せ、腕時計に目をやった。
そう、父は知らない女のもとへ行く。
幼いながらにも理解していた。
「えっ、お父さん、もう行っちゃうの?」
凛子、クリスマスを一緒に過ごせなくてごめんな。せっかく楽しみにしていたのに」
私はぎこちなく首を横に振った。仕方なく父から貰ったきんちゃく袋をコートのポケットにしまうと、コーヒーの缶をベンチに置いた。とっくにコーヒーは冷め切っていた。
路上を行き交う人々は、色とりどりの紙袋をぶら下げ、みな足早に通り過ぎて行く。
「凛子は父さんのこと、ずっと憶えていてくれるかい?」
「うん。私、お父さんのこと、ずっと憶えてる」
「そうか」
父は私の前に屈み込むと、まるで子猫にでもするように、髪をひと撫でした。
「凛子、本当にごめんよ。父さん、お前に何もしてやれなかった」
眼鏡を外して目元を拭う父に向かって、
「そんなことない。私、いつまでもお父さんのこと、大好きだから」
と、強い口調で遮った。
「凛子、お母さんと俊太郎のことを頼む」
「うん」
「じゃあ、父さんもう行くよ」
眼鏡を掛け立ち上がった父は、ベンチの上の荷物を持つと、私の右手を取った。
父の手は大きく温かだった。私はこの手を失うのだと改めて思うと急に心細くなり強く握り返した。
「じゃあ、ここでお別れだ、凛子。身体にはくれぐれも気を付けるんだよ」
「うん、分かった。お父さん、きっとまた会えるよね?」
最後に父は私の手を、もう一度固く握り締めた。
「ああ、いつかきっとまた会える」
そう言い残し、改札へと吸い込まれて行った。
「お父さーん、またね!」
父はこちらを一瞥したが、すぐに人混みの中へ、煙のように消えてしまった。私は姿が見えなくなっても、改札の外で手を振り続けた。
父を見送った後、私は近くの公園にひとり向かった。不思議と悲しくはなかった。
それよりもきんちゃく袋の中身が気になって仕方がなかった。
一体何だろう?
公園に着くなり誰もいないブランコに腰掛けると、さっそく父から貰ったばかりのきんちゃく袋を開けてみた。
袋の中身は、硝子でできた小さなプードルと、クリスマスカードだった。
私は硝子のプードルを膝に乗せると、カードを開いた。

凛子へ
メリークリスマス。本物のプードルを買ってやれなくてごめんよ。父さんはどんなに離れていても、いつも凛子の幸せを願っています。
父より

思わすカードから顔を上げた。
お父さんは憶えていたんだ。私がずっとプードルを欲しがっていたことを。
私はさっそく名前を付けた。
“プゥ”
メスのプードルを買って貰ったら、命名しようと以前から密かに画策していたのだ。
プゥとカードを膝に乗せたまま、私はしばらくぼんやりと、ブランコに揺られた。
するといつから降り出したのか、空からひとひらの雪が、プゥの頭上に舞い降りた。
「あっ、雪」
私は急いでプゥとカードを袋にしまうと、コートのポケットにするりと滑り込ませた。
ブランコから立ち上がると、漆黒の空を仰いだ。
空からは白い小鳥の羽のような雪が、次々と舞い降りてきた。私は空に向かって、両手を広げた。
それはまるで、天からのクリスマスプレゼントのようだった。私は必死の思いで雪を掴もうとしたが、まだ、降り始めたばかりでなかなか上手く掴むことができない。
その時ふと、背に視線を感じ振り返った。公園の入り口で、自転車に跨った少年がひとり、こちらをじっと見つめている。
「下手くそだなー!」
そう言うなり少年は、自転車をその場に止めると、私のほうへ駆け寄り、両手で器用に雪を掴んだ。
「いい?こうして雪が溶けないうちに願い事を三回繰り返すと、その願いが叶うんだ」
突如現れた少年は、そんな魔法の言葉を口にした。
「それ、本当なの?」
「うん、本当だよ」
少年は目を輝かせてそう言うと、幾度となく雪を掴み私に見せた。彼の手が微かに震え真っ赤だったことをはっきり憶えている。
「あーぁ、僕、手袋をしていないから、すぐに溶けちゃうな。君は手袋をしているから、きっと大丈夫だよ。やってごらん」
私は少年を真似て両手で雪を掴んだ。手袋の上に乗った雪が溶けないうちに、心の中で三回願い事を繰り返した。
いつかまた、お父さんと会えますように、と。
「願い事、本当に叶うかな?」
「叶うさ、きっと」
「いいこと教えてくれてありがとう。これあげる」
私は白いミトンの手袋を両手から外し、彼に差し出した。お気に入りのファーがついた手袋だったが、何の躊躇いもなかった。
「いいよ、そんなの」
「だって手、真っ赤だよ。私の家、もうすぐそこだから」
「本当に?」
「うん」
「ありがとう。じゃあ、お礼にこれあげるよ」
「なぁに?」
少年は着ていたジャンパーのポケットから、一冊の本を取り出した。

『十二夜』 シェイクスピア

「僕、もう読み終わっちゃったからさ。シェイクスピアって知ってる?」
「ううん。何だか難しそうな本ね私に読めるかな?」
「ちょっと難しいかもしれないけど、すっごく面白いんだ」
「わぁっ、楽しみ」
「じゃあ、僕、もう行くね」
「うん、ありがとう。メリークリスマス!」
「手袋ありがとう。メリークリスマス!」
私は小さく手を振り、自転車のもとへ駆けて行く少年を見送った。
それは六年前のクリスマスイブ。小学校五年生の出来事だった。
今思い返してみれば、これが私の初恋だったのかもしれない。
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