君に贈るエピローグ
朝の陽射しの中で
真夜中になっても、俺は一階のリビングのソファで眠れずにいた。
凛子はもう眠っただろうか?
俺は毛布にくるまりまがら、天井をじっと見つめた。
数枚の写真が物語った真実は、あまりにも衝撃的で、俺はまだ信じられずにいた。
ベッドの上にちょこんと並んで座っていた、三歳の頃のふたり…。
あの頃の俺は生死の境を彷徨っていた。
その俺が今こうして凛子と再会し、あんなに元気だった兄貴が死ぬなんて。運命のいたずらとは、こういうことを言うのだろうか?
生きるということは残酷の連続だ。
中学の頃に親父を失い、去年、兄貴が死んでからというもの、俺は自分の殻に閉じこもるようになった。凛子と出逢う前の俺は、仲間といても恋人といても、常に付きまとう孤独に怯えながら生きてきた。誰かと一緒にいても、その孤独感を拭い去ることなど、決してできなかった。そんな毎日に一筋の光を与えてくれたのが凛子だった。
有難うな、兄貴。
俺は目を閉じ今は亡き兄に、心の中で呟いた。

翌朝、気が付くと凛子が俺の肩を揺さぶっていた。
「ねぇ、明彦、起きて。もう、起きてったら!」
「う…ん、もう少しだけ寝かせてくれ」
「もう五時半よ!起きないなら私、先に行くからね!」
俺はその言葉で飛び起きた。
「俺、いつの間にか寝ちゃったんだな。もうそんな時間なのか?」
「そうよ、朝ご飯の用意ができているから、早く顔を洗ってらっしゃい」
凛子は既に制服に着替えていた。きれいに畳まれた制服とタオルを渡され、無理やり洗面所へと連れて行かれた。
「じゃあ、着替え終わったら、キッチンへきてね」
そう言った凛子の目は真っ赤だった。
俺は急いで顔を洗い歯を磨いてから、洗面所のドアを閉め着替えを済ませた。

キッチンへ行くと朝食の準備が出来ていた。凛子のお母さんは昨夜とは違い、スーツにエプロン姿で化粧をしていた。
「あら、山口君、おはよう。リビングのソファじぁ、良く眠れなかったでしょう?」
「そんのことないです。昨夜は本当に有難うございました。今朝もこんなちゃんとした朝食まで用意していただいて…」
「そんなのいいのよ。リビングで良ければ、暫くうちに泊まりなさい。お母様には私から事情を話しておくから」
「いいえ、昨夜だけでも十分助かりました。今日からは、友人の家にでも世話になります」
「山口君ったら、気を遣っているんでしょう?うちだったら、いつまでいてくれても構わないのよ。昨日だって、家族がひとり増えたみたいで楽しかったわ」
凛子のお母さんは俺に気を遣ってそう言ってくれたが、これ以上、甘える訳には行かなかった。
「有難うございます。でも、もう大丈夫ですから」
その時、凛子が鞄を持って二階から下りてきた。
「何、ふたりして秘密の話?」
「違うわよ。ねぇ、凛子、暫く山口君、うちに泊まってもいいわよね?」
「お母さん、それって普通、私が言うことじゃない?」
「それもそうね」
そう言って、凛子のお母さんは肩を揺すって笑いながら、焼きたてのトーストをテーブルまで運ぶと首からエプロンを外した。
「じゃあ、山口君、今日は朝から会議があるから、先に出るわね。荷物、置いて行きなさいよ。じゃあ、行ってきます」
「あの、本当に有難うございました!」
俺はそう言って、凛子のお母さんの背を見送った。

「じゃあ、明彦はそっち側に座って」
俺と凛子はテーブルを挟んで、向かい合わせに座った。
「ねぇ、明彦。母もああ言っているんだし、暫くうちにいなさいよ」
「せっかくだけど、これ以上、迷惑は掛けられないよ。お母さん、働いているんだし」
「そう。じゃあ、中原君か輝君の家に泊めて貰うの?」
「うん。それか、柴田先生の家かな?」
「柴田先生の家?」
「凛子が入院していた時、色々と相談に乗って貰ってただろ。その時も、何度か泊めて貰ったんだ。先生、何年か前に奥さんに先立たれて、マンションにひとりで住んでいるんだ。殆ど毎日、コンビニの弁当を食べてるから、俺がその時飯を作ったら、凄い喜んでくれてさ」
「そう。お母さん、淋しがると思うけどな」
「凛子は?」
「私は淋しくなんかないわ。だって私は毎日、学校で会ってるもの」
その時、俊太郎がパジャマ姿で二階から下りてきた。
「おはよう、俊」
「おはよう、凛子。あっ、明彦もおはよう」
「うん、おはよう」
俊太郎は大きな欠伸をひとつすると、目をこすりながら凛子の隣に座った。
「明彦、今日も帰ってくる?」
「ごめんな、俊、昨日は遅くまで付き合わせちゃって。また今度、遊びにくるよ。また一緒に、プロレスごっこしような」
「えー、今日も帰ってきてよ。俺、待ってるからさ」
「うん。でも、そういう訳にも行かないんだ」
「そっかぁ、つまんないなぁ」
「俊、明彦にも色々あるのよ。わがまま言わないの」
俊太郎はしゅんとしながら、ベーコンエッグを食べ始めた。
「じゃあ、お姉ちゃん達、先に行くからね。ちゃんと、おばあちゃんを起こしてから、学校へ行くのよ。分かった?」
「うん。じゃあ、明彦、またな」
「ああ、約束するよ。俊も学校頑張れよ!」
俊太郎にそう言い残し、俺と凛子は家を出た。

凛子の家の最寄り駅から電車に乗り、俺達は学園へと向かった。
「凛子、昨夜、一睡もしてないんだろ?俺のせいで悪かったな」
「そんなことないわ、色々と考えていて、気が付くと朝だったの」
「何を考えていたの?」
「昨夜の事。明彦と私が三歳の頃に出逢っていたなんて、不思議だな…って。それにクリスマスイブに出逢った少年が、和君だったなんて、何だか信じられなくて…」
「本当だな。三歳の頃も、俺達こうして並んで座ってた」
「明彦は眠れた?」
「俺は三時位までは起きてたけど、その後、気が付くと寝ていたよ」
「昨日は色々あって、疲れたでしょう?」
「まぁな」
そんな会話を交わしているうちに、学園前の駅に着いた。
俺達は初めてふたりで土手の上を歩いた。
いつもの場所までくると、凛子は俺の差し出した右手を取り、土手の下へと降りた。
「ねぇ、明彦…」
「うん?」
凛子は真っ直ぐに空を仰いで言った。
「私この間、ガソリンスタンドへ行ったでしょう?本当はあの日ね、明彦に聞きたい事があったの」
「うん。何となくそうじゃないかと思ってたよ、何?」
「あのね、大学の事。明彦、本当はうちの大学へ行くつもり、初めからないんでしょう?」
俺は答えに戸惑った。
「そんなことないよ、この間も言ったろ。結局は、うちの大学に行くと思うって…」
「もう、隠さなくていいわ。私、昨夜の話を聞いて分かったの」
「昨夜の話?」
「そう。本当は明彦、今のお父様と一緒に暮らしたくないんじゃない?」
凛子は何かを覚悟しているような口ぶりだった。
「私ね、明彦から初めて大学の話をされた時には動揺してしまったけれど、もう大丈夫だから、今、思っていることをちゃんと話して」
「うん、分かった…」
俺は大きく深呼吸をした。
「俺、本当は海外へ留学しようかと思っているんだ」
「何だ、そうなの。いいんじゃない?」
意外にも凛子はあっさりとした口ぶりでそう言った。いや、本当は動揺していたのかもしれなかった。だが、懸命に取り乱さぬよう、つとめて冷静を装おったのだろう。
「もう、決めたの?」
「いや、具体的にはまだ何も」
「そっかぁ、明彦がいなくなると淋しくなるな」
「俺だって同じだよ。だからずっと、迷っていたんだ」
「でもまた、きっとすぐに会えるわよ。だって私達、こうしてまた、巡り会えたんだもの」
「そうだな。俺、今度はちゃんとすぐに凛子を迎えにくるよ」
「本当?今度あんまり待たせたら、何処か遠くへ行っちゃうから」
凛子は俺の右頬を軽くつねった。
「ねぇ、今度、和君のお墓に連れて行って」
「いいけど、どうして?」
「こうしてまた、明彦と出逢えたのは、きっと和君のお陰だもの。だから、お墓の前できちんとお礼を言いたいの」
凛子はそう言って、上体を起こそうとした。俺は彼女の左腕を引っ張り、自分のほうへと引き寄せた。
「ちょっと、何するの?」
「黙って…」
彼女の唇に軽く人差し指を当てた。
凛子は驚いた様子で、大きな瞳を何度も瞬かせた。
光の中で視線が交わった。俺は次の瞬間、彼女の顎を掴んだ。唇にそっと自分の唇を重ねた。凛子の唇は熟れた果実のように柔らかくふくよかだった。
「ごめん…」
「私達、同志じゃなかったの?」
凛子の大きな瞳から涙が零れ落ち、薄紅色の頬を濡らした。
「同志にも愛は存在するんだ」
凛子は俺の胸に顔を埋め、両手で背を掴んだ。それから俺達は十四年の時を埋めるかのように、朝の陽射しの中で何度も唇を重ねた。凛子の唇はだんだんと熱を帯び、激しく脈を打って行った。
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