君に贈るエピローグ
転校生
始業のベルが鳴り響く音で、私はハッと顔を上げた。
後ろの席の小野美奈子が、制服の背を思い切り引っ張った。
「ちょっと、凛子ったら。何度も起こしたんだから。あんたったらずっと寝てるんだもん。一体どうしちゃったの?」
美奈子にそう言われ、自分でも何故眠ってしまったのか、見当が付かなかった。
いつもならクラスメイトがくる前に、一足先に教室へと入り、教科書やノートをパラパラめくるのも朝の日課の一部だった。
「あんたは変わってるよね。あたしなんか、毎朝ギリギリまで家で寝てるのに」
と、親友の美奈子はいつも言う。
私は取り分け真面目という訳ではない。ただ皆が一度でできることを、二度三度とやらないと、私の場合飲み込めない。要するに不器用なのだ。だから他のクラスメイトより、少しだけ早く登校して、自然と触れ合い心を潤わせてから、始業前に気持ちの準備をする。これは一年の時からずっと守ってきた、私なりのルールでもあった。
「もう、凛子ったら、ネクタイに涎の跡が付いてる」
美奈子に言われ、ネクタイを見ると、確かに涎の跡が付いていた。私はネクタイをハンカチで拭こうと思い、ブレザーの内ポケットを探したが見つからない。
あれ、家に忘れてきちゃったのかな?
キティちゃんの絵柄の付いた手鏡を覗き込みながら、美奈子は目を細め、念入りにマスカラをまつ毛に塗っている。
「ねぇねぇ、今日って転校生がくる日じゃん。どんな奴だろうね。超、楽しみ。あんたが寝ている間、今朝はその話題で持ちきりだったんだから!」
転校生。
そうだった、あの時、ハンカチを貸しちゃったんだ…。
堰を切ったように、今朝の土手での出来事が甦った。
土手、ピーコートの背に付いた土と芝、微笑んだ時に唇の隙間からこぼれる白い歯…。
『ヤマグチアキヒコ』
ぐっすり眠ってしまったせいで、ぼんやりとしていた頭が、一気に冴え渡った。
「凛子、その膝どうしたの?」
「えっ?」
そう言われて、右膝を見ると擦り傷ができていた。そういえばあの後、混乱していた私は、校舎の階段を駆け上がる際、足を踏み外したのだった。
「ああ、これ?何でもないよ」
途端に顔が強張った。
「何でもないって、血が出てるじやん。保健室に行ったほうが良くない?」
「ううん、大丈夫」
美奈子は私の変化に気が付いた様子もなく、ポーチから絆創膏を取り出し渡してくれた。
その時、教室の扉がガラガラと勢い良く音を立てて開いた。丸眼鏡をかけた担任の柴田先生が、名簿を片手に入ってきた。
「はーい、おはよう。みんな静かに。今日はみんなに新しい仲間を紹介する。ヤマグチ、入っていいぞ」
濃紺の制服が目に飛び込んできた。確かに今朝、土手で出逢った、ヤマグチアキヒコである。教室にどよめきが起こった。彼はゆったりとした足取りで教壇へ上がった。黒板に自分の名前を美しい文字で丁寧に書いた。
『山口明彦』
手に着いたチョークの粉を払いながら、彼は徐に正面を向いた。
「皆さん、初めまして。山口明彦です。東京のど真ん中からやってきました。この学園は、自然が多くてびっくりしました。早く皆さんと打ち解けたいと思っているので、宜しくお願いします」
心臓に火が付いたように、身体中が熱くなった。
教室はシンと静まり返った後、大歓声と拍手に包まれた。特に女子は分かりやすく、彼に手を振って、アピールする者までいた。
私は今朝の土手での出来事をふたたび思い出すと、恥ずかしさのあまり、その場から逃げ出したい気分にかられた。なるべく目立たないよう、頬杖を突き身体をすくめ、窓外に目をやった。
「ちょっと、超、イケメンじゃん!」
後ろの席の美奈子も浮き足立っている。
ちょうど教室の真ん中で、女子と男子とで席が分かれており、両端からそれぞれ名簿順に席が並んでいる。明彦の席は、教室の入り口側から三列目の後ろから二番目だった。私の席は一番窓側の、前から三番目。斜め後ろを振り返えさえしなければ、明彦の姿は見えない。いつもすっぴん、ノーメイクの私は、これで顔を見られずに済む。
そうこうしているうちに、一時間目の柴田先生の現代国語が始まった。授業が始まっても、皆の興奮は覚めやらず、女子も男子もこぞって明彦のほうを見ては、何やらヒソヒソと喋っている。見かねた柴田先生が何度も注意をするが、一向に聞く気配すらない。
明彦のちょうど左斜め後ろの席に、クラスの女子で一番人気の渡辺朋子がいる。彼女は縦巻きウエーブのロングヘアが良く似合う“超”が付くほどの美人で、クラスでは女子のリーダー格的な存在だ。どうやらさっそく彼女が、明彦の世話をあれこれと焼いているようだった。朋子は同年代の男子などには目もくれず、大学生の彼氏がいると、もっぱらの噂だった。そんな彼女が、早々に興味を抱くくらいなのだから、明彦は女子から相当モテるのだろう。
「ねぇ、凛子。朋子が教科書とノートを、山口君に貸してあげてるみたい。頼まれてもいないくせにね」
美奈子がいちいち報告をしてくるので、まったく授業に集中できない。
「美奈子、もういいってば。私、そういうの興味ないから」
私はきっぱりそう言うと、教科書に目を戻した。
「もう凛子ったら、冷たいんだからぁ」
美奈子が甘ったるい声で呟くのが聞こえた。正直、内心では興味津々だった。だが、今朝の土手での一件といい、明彦がクラスの女子の中で私を特別な存在として見てくれる確率が、限りなくゼロに近いことは自分が一番良く分かっている。朋子と比べれは“提灯に釣鐘”といったところだ。
今日はこんな調子が六時間目まで続き、一日があっという間に過ぎて行った。
帰りは美奈子の他に親友の、笹井博美と矢沢優衣の四人で下校した。彼女達はいわゆる今どきの渋谷にいるようなギャル系で、ファッションや男の子の話題には事かがず、三人で良く渋谷の街へ買い物や遊びに行っている。そんな彼女達は“凛子改造計画”などと称し、流行りの雑誌を見ながらメイクの仕方を教えてくれたり、遊びに誘ってくれたりするのだが、どうも私の性には合わない。私はすっぴんのほうが自分らしくて好きだし、渋谷の人混みよりも、自然の中でひとりのんびり花や草木と戯れていることのほうが楽しかった。そんな彼女達と上手くやっていけるのは、彼女達が私の存在をきちんと認識してくれているからだった。優しさから“凛子改造計画”なるものを実行しようとしてくれているのだが、決してそれを無理矢理押し付けたりしない。素の私を受け入れ、付き合い方をわきまえてくれている、有難い友人達である。
さっそく帰り道でも、明彦の話題になった。
「何かさぁ、こう大人の男って感じ?」
「そうそう、うちらの学年にはいないタイプだよね」
「一見明るく振舞ってるんだけど、何処か影があるみたいな」
私は適当に相槌を打ちながら聞いていたが、心中では明彦のことを考えていた。
そういえば、ハンカチを、返して貰っていなかったんだ。どうしよう…。
ぼんやり考えながら歩いていると、学園前の駅に着いていた。駅で博美と優衣と別れ、美奈子とふたりきりになった。美奈子はまだ明彦のことを話し足りない様子で、
「凛子、あたし真面目に山口君のこと好きになっちゃったかも」
と、熱のこもった口調で語り出した。
「ちょっと美奈子ったら、何を言ってるの。まだ出逢って数時間しか経ってないのに、そんなに簡単に、人を好きになれるもの?」
「一目惚れだよ、一目惚れ!運命の人って感じかな」
「そんなものかな…」
「そんなもんよ、ねぇ、凛子は応援してくれるよね?」
「えっ?」
そう言われ、一瞬間ができてしまった。今朝の土手での一件は、口が裂けても、美奈子には言えそうになかった。
「うん、勿論だよ。美奈子がそこまで言うなら、私何でも協力する」
と、口から咄嗟に出ていた。
「優衣と博美には、一目惚れの話は内緒だからね!」
「オッケー、分かったわ」
私達は電車に乗る方向が逆なので、改札で手を振って別れた。
後ろの席の小野美奈子が、制服の背を思い切り引っ張った。
「ちょっと、凛子ったら。何度も起こしたんだから。あんたったらずっと寝てるんだもん。一体どうしちゃったの?」
美奈子にそう言われ、自分でも何故眠ってしまったのか、見当が付かなかった。
いつもならクラスメイトがくる前に、一足先に教室へと入り、教科書やノートをパラパラめくるのも朝の日課の一部だった。
「あんたは変わってるよね。あたしなんか、毎朝ギリギリまで家で寝てるのに」
と、親友の美奈子はいつも言う。
私は取り分け真面目という訳ではない。ただ皆が一度でできることを、二度三度とやらないと、私の場合飲み込めない。要するに不器用なのだ。だから他のクラスメイトより、少しだけ早く登校して、自然と触れ合い心を潤わせてから、始業前に気持ちの準備をする。これは一年の時からずっと守ってきた、私なりのルールでもあった。
「もう、凛子ったら、ネクタイに涎の跡が付いてる」
美奈子に言われ、ネクタイを見ると、確かに涎の跡が付いていた。私はネクタイをハンカチで拭こうと思い、ブレザーの内ポケットを探したが見つからない。
あれ、家に忘れてきちゃったのかな?
キティちゃんの絵柄の付いた手鏡を覗き込みながら、美奈子は目を細め、念入りにマスカラをまつ毛に塗っている。
「ねぇねぇ、今日って転校生がくる日じゃん。どんな奴だろうね。超、楽しみ。あんたが寝ている間、今朝はその話題で持ちきりだったんだから!」
転校生。
そうだった、あの時、ハンカチを貸しちゃったんだ…。
堰を切ったように、今朝の土手での出来事が甦った。
土手、ピーコートの背に付いた土と芝、微笑んだ時に唇の隙間からこぼれる白い歯…。
『ヤマグチアキヒコ』
ぐっすり眠ってしまったせいで、ぼんやりとしていた頭が、一気に冴え渡った。
「凛子、その膝どうしたの?」
「えっ?」
そう言われて、右膝を見ると擦り傷ができていた。そういえばあの後、混乱していた私は、校舎の階段を駆け上がる際、足を踏み外したのだった。
「ああ、これ?何でもないよ」
途端に顔が強張った。
「何でもないって、血が出てるじやん。保健室に行ったほうが良くない?」
「ううん、大丈夫」
美奈子は私の変化に気が付いた様子もなく、ポーチから絆創膏を取り出し渡してくれた。
その時、教室の扉がガラガラと勢い良く音を立てて開いた。丸眼鏡をかけた担任の柴田先生が、名簿を片手に入ってきた。
「はーい、おはよう。みんな静かに。今日はみんなに新しい仲間を紹介する。ヤマグチ、入っていいぞ」
濃紺の制服が目に飛び込んできた。確かに今朝、土手で出逢った、ヤマグチアキヒコである。教室にどよめきが起こった。彼はゆったりとした足取りで教壇へ上がった。黒板に自分の名前を美しい文字で丁寧に書いた。
『山口明彦』
手に着いたチョークの粉を払いながら、彼は徐に正面を向いた。
「皆さん、初めまして。山口明彦です。東京のど真ん中からやってきました。この学園は、自然が多くてびっくりしました。早く皆さんと打ち解けたいと思っているので、宜しくお願いします」
心臓に火が付いたように、身体中が熱くなった。
教室はシンと静まり返った後、大歓声と拍手に包まれた。特に女子は分かりやすく、彼に手を振って、アピールする者までいた。
私は今朝の土手での出来事をふたたび思い出すと、恥ずかしさのあまり、その場から逃げ出したい気分にかられた。なるべく目立たないよう、頬杖を突き身体をすくめ、窓外に目をやった。
「ちょっと、超、イケメンじゃん!」
後ろの席の美奈子も浮き足立っている。
ちょうど教室の真ん中で、女子と男子とで席が分かれており、両端からそれぞれ名簿順に席が並んでいる。明彦の席は、教室の入り口側から三列目の後ろから二番目だった。私の席は一番窓側の、前から三番目。斜め後ろを振り返えさえしなければ、明彦の姿は見えない。いつもすっぴん、ノーメイクの私は、これで顔を見られずに済む。
そうこうしているうちに、一時間目の柴田先生の現代国語が始まった。授業が始まっても、皆の興奮は覚めやらず、女子も男子もこぞって明彦のほうを見ては、何やらヒソヒソと喋っている。見かねた柴田先生が何度も注意をするが、一向に聞く気配すらない。
明彦のちょうど左斜め後ろの席に、クラスの女子で一番人気の渡辺朋子がいる。彼女は縦巻きウエーブのロングヘアが良く似合う“超”が付くほどの美人で、クラスでは女子のリーダー格的な存在だ。どうやらさっそく彼女が、明彦の世話をあれこれと焼いているようだった。朋子は同年代の男子などには目もくれず、大学生の彼氏がいると、もっぱらの噂だった。そんな彼女が、早々に興味を抱くくらいなのだから、明彦は女子から相当モテるのだろう。
「ねぇ、凛子。朋子が教科書とノートを、山口君に貸してあげてるみたい。頼まれてもいないくせにね」
美奈子がいちいち報告をしてくるので、まったく授業に集中できない。
「美奈子、もういいってば。私、そういうの興味ないから」
私はきっぱりそう言うと、教科書に目を戻した。
「もう凛子ったら、冷たいんだからぁ」
美奈子が甘ったるい声で呟くのが聞こえた。正直、内心では興味津々だった。だが、今朝の土手での一件といい、明彦がクラスの女子の中で私を特別な存在として見てくれる確率が、限りなくゼロに近いことは自分が一番良く分かっている。朋子と比べれは“提灯に釣鐘”といったところだ。
今日はこんな調子が六時間目まで続き、一日があっという間に過ぎて行った。
帰りは美奈子の他に親友の、笹井博美と矢沢優衣の四人で下校した。彼女達はいわゆる今どきの渋谷にいるようなギャル系で、ファッションや男の子の話題には事かがず、三人で良く渋谷の街へ買い物や遊びに行っている。そんな彼女達は“凛子改造計画”などと称し、流行りの雑誌を見ながらメイクの仕方を教えてくれたり、遊びに誘ってくれたりするのだが、どうも私の性には合わない。私はすっぴんのほうが自分らしくて好きだし、渋谷の人混みよりも、自然の中でひとりのんびり花や草木と戯れていることのほうが楽しかった。そんな彼女達と上手くやっていけるのは、彼女達が私の存在をきちんと認識してくれているからだった。優しさから“凛子改造計画”なるものを実行しようとしてくれているのだが、決してそれを無理矢理押し付けたりしない。素の私を受け入れ、付き合い方をわきまえてくれている、有難い友人達である。
さっそく帰り道でも、明彦の話題になった。
「何かさぁ、こう大人の男って感じ?」
「そうそう、うちらの学年にはいないタイプだよね」
「一見明るく振舞ってるんだけど、何処か影があるみたいな」
私は適当に相槌を打ちながら聞いていたが、心中では明彦のことを考えていた。
そういえば、ハンカチを、返して貰っていなかったんだ。どうしよう…。
ぼんやり考えながら歩いていると、学園前の駅に着いていた。駅で博美と優衣と別れ、美奈子とふたりきりになった。美奈子はまだ明彦のことを話し足りない様子で、
「凛子、あたし真面目に山口君のこと好きになっちゃったかも」
と、熱のこもった口調で語り出した。
「ちょっと美奈子ったら、何を言ってるの。まだ出逢って数時間しか経ってないのに、そんなに簡単に、人を好きになれるもの?」
「一目惚れだよ、一目惚れ!運命の人って感じかな」
「そんなものかな…」
「そんなもんよ、ねぇ、凛子は応援してくれるよね?」
「えっ?」
そう言われ、一瞬間ができてしまった。今朝の土手での一件は、口が裂けても、美奈子には言えそうになかった。
「うん、勿論だよ。美奈子がそこまで言うなら、私何でも協力する」
と、口から咄嗟に出ていた。
「優衣と博美には、一目惚れの話は内緒だからね!」
「オッケー、分かったわ」
私達は電車に乗る方向が逆なので、改札で手を振って別れた。