君に贈るエピローグ
転校生2
家に帰ると母も祖母も外出中で、キッチンのテーブルの上に、メモ書きが置いてあった。
おばあちゃんと銀座に行ってきます。遅くなるから、何か適当に作って、俊太郎とふたりで食べてね。
ママより
今日、母が仕事で休みを取ったいたことを、私はすっかり忘れていた。
我が家はいわゆる母子家庭だった。母は六年前に離婚し、私が中学に上がると同時に、結婚前に働いていた旅行会社に復職した。職場では経理を担当している。六年もの間、成長期の子供をふたりも抱え、毎日必死に働いてきたに違いない。私達に苦労はさせまいと、私を私立の高校に通わせ、弟の俊太郎を塾へと行かせている。いくら毎月、父から養育費を貰っているにしても、母の給料と合わせて、きっとギリギリの額に決まっていた。たまの休みくらい日常を忘れて、ゆっくりと羽を伸ばして貰いたい。
壁の時計に目をやると、もうすぐ俊太郎が塾から帰ってくる時間だった。冷蔵庫を覗いて適当に何か作ろうと思ったが、中はほとんど空っぽの状態だった。私は急いで自分の部屋に駆け上がり、ベットの上に鞄を放り投げると、タートルネックにジーパンという、簡素な格好に着替えた。ダウンジャケットを片手に一階に戻ると、エコバックを持って玄関を飛び出した。
自転車を漕ぎながら、今夜のメニューは決めていた。手っ取り早くできる生姜焼き、ブロッコリーとゆで卵のサラダ、それに味噌汁とご飯。スーパーマーケットに着くなり、材料を片っ端からカゴに入れ、レジへと並んだ。この付近に大型の、スーパーマーケットは一軒しかなく、この時間帯は近所の主婦達でごった返している。下手をするとレジで数分待たなければならない。運良くレジは空いており、私は素早く会計を済ませると、買った食材を次から次へと、エコバックに詰め込んだ。
その時、後ろから不意に肩を叩かれた。驚いて振り返ると、そこには上品な四十代半ばの女性が立っていた。
「あの、もしかして、小川凛子ちゃん?」
「すみません、どちら様でしたっけ?」
「そうよね、もう忘れちゃったわよね。凛子ちゃんがまだ保育園の頃、お隣に住んでいた村田です」
私はその場で素早く記憶を手繰り寄せた。保育園といえば、まだ三歳の頃の話だ。父が転勤族だったため、幼少の頃、私達一家は様々な町を転々とした。三歳のといえば、東京の杉並に住んでいた頃ではないか?
「もしかして、東京の杉並に住んでいた頃の?」
「そうそう、うちの息子が、いつも凛子ちゃんのことを追い掛け回していてね。和明のこと憶えてる?」
うろ憶えだったが、お隣に双子の男の子の兄弟が住んでいたことは、何となく記憶に残っている。確か上のお兄ちゃんは和君といって、保育園が一緒だったこともあり、良く親しく遊んで貰っていた。下の弟さんは心臓が悪いとかで都内の大きな病院に入院していたのだと、後から母に聞かされた憶えがある。その後私が四歳になる頃、父の転勤が決まり、私達一家は埼玉へと引っ越した。それからも一年半くらいのペースで何度か転勤を繰り返してきたので、村田一家ともいつしか音信不通になってしまっていた。
「はい、何となくですけど憶えています。どうもご無沙汰しています。和君はお元気ですか?」
村田夫人の顔が急に曇った。
「実はね、去年、自転車に乗っていて、トラックと正面衝突して亡くなったの。そんなこともあって、気分を変えたくてね。つい先日、緑ヶ丘に引っ越してきたばかりなのよ」
私は掛ける言葉が見つからなかった。あんなに元気に走り回っていた和君が亡くなったなんて。
「ごめんなさいね、こんな所でお話しちゃって。本当に懐かしいわ。もしお時間があれば、近くの喫茶店でお茶でもいかが?」
と、村田夫人は腕の時計に目をやった。
「せっかくなんですけど、今日は母も祖母も外出してしまっていて、私が夕飯を作らないといけないんです。何か書くものってお持ちですか?」
村田夫人はバッグの中を探ると、手帳とペンを取り出し渡してくれた。
「凛子ちゃん、大きくなったわね。でも昔の面影がそのままだわ。だからすぐに分かったの。皆さんはお元気?」
「はい、父と母は六年前に離婚しましたけど、母も祖母もみんな元気にしています。和君が亡くなったなんて、何だか信じられません。全然知らなくてごめんなさい。今度、お線香をあげに伺わせていただいてもいいですか?」
「凛子ちゃん、有難う。和明もきっと喜ぶわ。今日はあなたに出会えて良かったわ。急いでいるのに、呼び止めたりしてごめんなさい。お母様にもくれぐれも宜しく伝えてね」
「はい、わたしも久しぶりにお会いできて、嬉しかったです。ここにうちの連絡先を、書いておきましたから、もしお時間があったら是非、連絡してください。母にもお会いしたことを伝えおきますから。また、昔のお話でもゆっくりしましょう」
そう言って、手帳とペンを村田夫人に返した。
「じゃあ、また。気を付けてね」
「わざわざお声を掛けてくださって、有難うございます。では、また。失礼します」
私は村田夫人に丁寧に頭を下げ、出口へと向かった。
急いで家へ戻ると、案の定、俊太郎が、先に塾から帰ってきていた。俊太郎は、私の六つ下の弟でまだ小学五年生だ。俊太郎は私が帰るなり、それまでやっていたテレビゲームを床に放り投げ、
「おい、凛子、スーパーに行くのに、まったく何分掛かってるんたよ!」
と、怒鳴りつけてきた。弟の俊太郎は私のことを凛子と呼ぶ。
「はいはい、ごめんね。今すぐ夕飯の支度をするから。今日は俊の好きな生姜焼きよ」
俊太郎をなだめ、夕飯の準備に取り掛かった。その間に風呂を沸かし、ゲームを続けたがる俊太郎を無理矢理風呂に入れ、ふたりで少し遅い夕食をとった。
結局、母と祖母が帰ってきたのは、九時をだいぶ回った頃だった。私が用意した夕食を食べながら、母は今日一日の出来事を細かく私達に説明した。
「三越でちょうど生け花の展示会をやっていてね。それは素晴らしかったわ。おばあちゃんに春のストールを見てあげて、ママはバッグを買っちゃったわ。ちょっと、凛子、冷蔵庫にビールが冷やしてあったでしょう、出してきて貰える?」
母は自分のことを“ママ”と呼ばせたがった。私も俊太郎も気恥ずかしくて“お母さん”としか呼んだことがない。
「そういえば、ふたりにも、ママからお土産があるのよ」
冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、母と祖母にグラスを渡した。それと引き換えかのように、母が三越の小さな袋を私と俊太郎に手渡した。
私は袋を開けながら言った。
「今日、スーパーでとても懐かしい人に会ったのよ。東京の杉並に住んでいた頃、村田さんてご家族が、お隣にいたでしょ。和君のママ。お母さん憶えてる?」
「まぁ、恵子さん。懐かしいわ。お元気だった?もしかしてこの辺に越していらしたの?」
「うん、つい最近ね、緑ヶ丘に引っ越してきたんだって。今はお元気そうだったけど、和君、去年交通事故で亡くなったって言ってた」
「それ、本当なの?あの和君が…」
「うん、うちの連絡先を教えておいたから、近々、連絡があると思う」
袋の中身は花柄のハンカチだった。私は急に『山口明彦』のことを思い出した。
「そういえば、恵子さんのお宅、和君と双子の男の子がいたでしょ、心臓の悪かった。小さい凛子を連れて、一度お見舞いに行ったことがあるのよ。彼は元気にしているのかしら?」
母の言葉など、もう耳には入らなかった。私の頭の中は『山口明彦』のことでいっぱいになっていた。その場で感情を堪えきれなくなった私は、
「ちょっと、お風呂に入ってくるね」
と、その場を誤魔化し、二階へパジャマを取りに上がった。
パジャマを持って一階に下りてくると、すぐに風呂場に向かった。
脱衣所で下着まで取ると、洗面台の鏡に自分の裸体が映し出された。まるで枯れ木のように凹凸のないその身体は、私を惨めな気持ちにさせた。浴室に駆け込むと私は、頭から熱いシャワーを浴びた。たかが母からハンカチを貰ったことくらいのことで、何故こんなにも心乱れるのか?と思ったのも束の間、その思いとは裏腹に、身体は情熱的に火照って行く。戸惑った私は、ぞんざいに髪を洗った。
バラのシャンプーの香りが浴室いっぱいに立ち込めた。
おばあちゃんと銀座に行ってきます。遅くなるから、何か適当に作って、俊太郎とふたりで食べてね。
ママより
今日、母が仕事で休みを取ったいたことを、私はすっかり忘れていた。
我が家はいわゆる母子家庭だった。母は六年前に離婚し、私が中学に上がると同時に、結婚前に働いていた旅行会社に復職した。職場では経理を担当している。六年もの間、成長期の子供をふたりも抱え、毎日必死に働いてきたに違いない。私達に苦労はさせまいと、私を私立の高校に通わせ、弟の俊太郎を塾へと行かせている。いくら毎月、父から養育費を貰っているにしても、母の給料と合わせて、きっとギリギリの額に決まっていた。たまの休みくらい日常を忘れて、ゆっくりと羽を伸ばして貰いたい。
壁の時計に目をやると、もうすぐ俊太郎が塾から帰ってくる時間だった。冷蔵庫を覗いて適当に何か作ろうと思ったが、中はほとんど空っぽの状態だった。私は急いで自分の部屋に駆け上がり、ベットの上に鞄を放り投げると、タートルネックにジーパンという、簡素な格好に着替えた。ダウンジャケットを片手に一階に戻ると、エコバックを持って玄関を飛び出した。
自転車を漕ぎながら、今夜のメニューは決めていた。手っ取り早くできる生姜焼き、ブロッコリーとゆで卵のサラダ、それに味噌汁とご飯。スーパーマーケットに着くなり、材料を片っ端からカゴに入れ、レジへと並んだ。この付近に大型の、スーパーマーケットは一軒しかなく、この時間帯は近所の主婦達でごった返している。下手をするとレジで数分待たなければならない。運良くレジは空いており、私は素早く会計を済ませると、買った食材を次から次へと、エコバックに詰め込んだ。
その時、後ろから不意に肩を叩かれた。驚いて振り返ると、そこには上品な四十代半ばの女性が立っていた。
「あの、もしかして、小川凛子ちゃん?」
「すみません、どちら様でしたっけ?」
「そうよね、もう忘れちゃったわよね。凛子ちゃんがまだ保育園の頃、お隣に住んでいた村田です」
私はその場で素早く記憶を手繰り寄せた。保育園といえば、まだ三歳の頃の話だ。父が転勤族だったため、幼少の頃、私達一家は様々な町を転々とした。三歳のといえば、東京の杉並に住んでいた頃ではないか?
「もしかして、東京の杉並に住んでいた頃の?」
「そうそう、うちの息子が、いつも凛子ちゃんのことを追い掛け回していてね。和明のこと憶えてる?」
うろ憶えだったが、お隣に双子の男の子の兄弟が住んでいたことは、何となく記憶に残っている。確か上のお兄ちゃんは和君といって、保育園が一緒だったこともあり、良く親しく遊んで貰っていた。下の弟さんは心臓が悪いとかで都内の大きな病院に入院していたのだと、後から母に聞かされた憶えがある。その後私が四歳になる頃、父の転勤が決まり、私達一家は埼玉へと引っ越した。それからも一年半くらいのペースで何度か転勤を繰り返してきたので、村田一家ともいつしか音信不通になってしまっていた。
「はい、何となくですけど憶えています。どうもご無沙汰しています。和君はお元気ですか?」
村田夫人の顔が急に曇った。
「実はね、去年、自転車に乗っていて、トラックと正面衝突して亡くなったの。そんなこともあって、気分を変えたくてね。つい先日、緑ヶ丘に引っ越してきたばかりなのよ」
私は掛ける言葉が見つからなかった。あんなに元気に走り回っていた和君が亡くなったなんて。
「ごめんなさいね、こんな所でお話しちゃって。本当に懐かしいわ。もしお時間があれば、近くの喫茶店でお茶でもいかが?」
と、村田夫人は腕の時計に目をやった。
「せっかくなんですけど、今日は母も祖母も外出してしまっていて、私が夕飯を作らないといけないんです。何か書くものってお持ちですか?」
村田夫人はバッグの中を探ると、手帳とペンを取り出し渡してくれた。
「凛子ちゃん、大きくなったわね。でも昔の面影がそのままだわ。だからすぐに分かったの。皆さんはお元気?」
「はい、父と母は六年前に離婚しましたけど、母も祖母もみんな元気にしています。和君が亡くなったなんて、何だか信じられません。全然知らなくてごめんなさい。今度、お線香をあげに伺わせていただいてもいいですか?」
「凛子ちゃん、有難う。和明もきっと喜ぶわ。今日はあなたに出会えて良かったわ。急いでいるのに、呼び止めたりしてごめんなさい。お母様にもくれぐれも宜しく伝えてね」
「はい、わたしも久しぶりにお会いできて、嬉しかったです。ここにうちの連絡先を、書いておきましたから、もしお時間があったら是非、連絡してください。母にもお会いしたことを伝えおきますから。また、昔のお話でもゆっくりしましょう」
そう言って、手帳とペンを村田夫人に返した。
「じゃあ、また。気を付けてね」
「わざわざお声を掛けてくださって、有難うございます。では、また。失礼します」
私は村田夫人に丁寧に頭を下げ、出口へと向かった。
急いで家へ戻ると、案の定、俊太郎が、先に塾から帰ってきていた。俊太郎は、私の六つ下の弟でまだ小学五年生だ。俊太郎は私が帰るなり、それまでやっていたテレビゲームを床に放り投げ、
「おい、凛子、スーパーに行くのに、まったく何分掛かってるんたよ!」
と、怒鳴りつけてきた。弟の俊太郎は私のことを凛子と呼ぶ。
「はいはい、ごめんね。今すぐ夕飯の支度をするから。今日は俊の好きな生姜焼きよ」
俊太郎をなだめ、夕飯の準備に取り掛かった。その間に風呂を沸かし、ゲームを続けたがる俊太郎を無理矢理風呂に入れ、ふたりで少し遅い夕食をとった。
結局、母と祖母が帰ってきたのは、九時をだいぶ回った頃だった。私が用意した夕食を食べながら、母は今日一日の出来事を細かく私達に説明した。
「三越でちょうど生け花の展示会をやっていてね。それは素晴らしかったわ。おばあちゃんに春のストールを見てあげて、ママはバッグを買っちゃったわ。ちょっと、凛子、冷蔵庫にビールが冷やしてあったでしょう、出してきて貰える?」
母は自分のことを“ママ”と呼ばせたがった。私も俊太郎も気恥ずかしくて“お母さん”としか呼んだことがない。
「そういえば、ふたりにも、ママからお土産があるのよ」
冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出し、母と祖母にグラスを渡した。それと引き換えかのように、母が三越の小さな袋を私と俊太郎に手渡した。
私は袋を開けながら言った。
「今日、スーパーでとても懐かしい人に会ったのよ。東京の杉並に住んでいた頃、村田さんてご家族が、お隣にいたでしょ。和君のママ。お母さん憶えてる?」
「まぁ、恵子さん。懐かしいわ。お元気だった?もしかしてこの辺に越していらしたの?」
「うん、つい最近ね、緑ヶ丘に引っ越してきたんだって。今はお元気そうだったけど、和君、去年交通事故で亡くなったって言ってた」
「それ、本当なの?あの和君が…」
「うん、うちの連絡先を教えておいたから、近々、連絡があると思う」
袋の中身は花柄のハンカチだった。私は急に『山口明彦』のことを思い出した。
「そういえば、恵子さんのお宅、和君と双子の男の子がいたでしょ、心臓の悪かった。小さい凛子を連れて、一度お見舞いに行ったことがあるのよ。彼は元気にしているのかしら?」
母の言葉など、もう耳には入らなかった。私の頭の中は『山口明彦』のことでいっぱいになっていた。その場で感情を堪えきれなくなった私は、
「ちょっと、お風呂に入ってくるね」
と、その場を誤魔化し、二階へパジャマを取りに上がった。
パジャマを持って一階に下りてくると、すぐに風呂場に向かった。
脱衣所で下着まで取ると、洗面台の鏡に自分の裸体が映し出された。まるで枯れ木のように凹凸のないその身体は、私を惨めな気持ちにさせた。浴室に駆け込むと私は、頭から熱いシャワーを浴びた。たかが母からハンカチを貰ったことくらいのことで、何故こんなにも心乱れるのか?と思ったのも束の間、その思いとは裏腹に、身体は情熱的に火照って行く。戸惑った私は、ぞんざいに髪を洗った。
バラのシャンプーの香りが浴室いっぱいに立ち込めた。