彼は藤娘
その日のコーラスは、何だか感慨深かった。

ゴンドラの唄の五線譜の平仮名ではなく、吉井勇の旧仮名遣いの歌詞が心に沁みる気がした。


♪いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、

 朱(あか)き唇、褪(あ)せぬ間(ま)に、

 熱き血液(ちしほ)の冷えぬ間(ま)に

 明日(あす)の月日(つきひ)のないものを。


 いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、

 いざ手を取りて彼(か)の舟に、

 いざ燃ゆる頬(ほ)を君が頬(ほ)に

 こゝには誰(た)れも來(こ)ぬものを。


 いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、

 波にたゞよひ波の様(よ)に、

 君が柔手(やはて)を我が肩に

 こゝには人目ないものを。


 いのち短し、戀(こひ)せよ、少女(をとめ)、

 黒髪の色褪(あ)せぬ間(ま)に、

 心のほのほ消えぬ間(ま)に

 今日(けふ)はふたゝび來(こ)ぬものを。♪



コーラスの練習が終わった後、燈子ちゃんと芳澤流お家元へと向かった。

「今日もテオさん、来はるの?」


燈子ちゃんは、ちょっと申し訳なさそうに言った。

「うん。先週、師匠におねだりして……お化粧も鬘もつけて舞ってくれはるらしいよ。」


え!?

「マジで?うわ~!うれしい!私も観る~!」


あ、そうだ!

慌てて義人くんにメール送信。


<彩乃くんがお家元でお化粧も鬘もつけて舞うねんて~。時間あるなら見に来ぉへん?>


余計なお世話かもしれへんけど、一応そう誘ってみた。


お家元に着くと、既にテオさんがお姉さんがたに囲まれていた。


「Tohko!What’s up?」

……ああ、英語、早い~……燈子ちゃん、英会話がんばれ~。


とりあえず、私はいつものようにお花を活けるために水屋へ。

お花の包みを開けて、どう活けるか考えていると、鼻孔をくすぐる薫香が漂ってくる。


「彩乃くん?……わっ!」

振り返ると、舞台化粧ばっちりの麗しい彩乃くんがいた。


「よぉ。花活けるの後にしたら?今から舞うし。あきも見とき。」

艶っぽい美しいお嬢さんな彩乃くんが、普通に男の声でそう言うものだから、私はドキドキしてしまった。


「綺麗……。今日は、何を舞うん?」

白地に藍の菖蒲模様の着物に博多帯。

鬘は島田系……つぶし島田かな?


「これ。」

彩乃くんが右手に持っていた菖蒲の造花を見せた。

左手には塗りの傘も持っているようだ。


「えーと……『菖蒲浴衣』?」

彩乃くんはニッと笑って、私の頬に口づけた。

白粉(おしろい)やお香のいい香りとの相乗効果でクラクラする。


「正解。よぉわかったな。」

……前にお稽古してるの見たことあるし……芳澤あやめの着る浴衣の宣伝の為の長唄舞らしいから。

「芳澤流のメンツにかけて、これだけは追求し続けんとな。」

そう言って彩乃くんは綾之助の顔になって、しゃなりしゃなりと稽古場へと歩き出した。


お稽古場の下手後方から入ると、既に到着したらしい義人くんがお家元と並んで座って談笑しているのが見えた。

お弟子さんが気を利かせてカーテンを引いて暗くして、舞台に見立てた場所だけ室内灯を付ける。

スポットライトはないけれど、彩乃くんの美貌は充分に光輝いていた。


♪五月雨や 傘につけたる 小人形♪


さすがに長唄はお願いせず、お稽古用に録音した音源を流すらしい。


♪菖蒲浴衣の 白襲 表は縹 紫に 裏むらさきの 朱奪ふ くれないも亦 重ぬるとかや

 それは端午の 辻が花 五とこ紋の 陰ひなた♪


単に浴衣の説明なんだけど、彩乃くんの舞ですごく色っぽく聞こえるから不思議。


♪縺れを結ぶ 盃の 行く末廣の 菖蒲酒 是れ百薬の 長なれや

 廻るさかづき 数々も 酌めや酌めくめ 盡きしなき 酒の泉の 芳村と

 榮ふる家こそ 目出度けれ♪


実は最後は芳澤流には関係のない杵屋勝三郎と芳村伊十郎の仲直りを唄ってるらしい。

おめでたいからいいけど。


舞が終わると、テオさんが

「brava!」

と叫んで、立ち上がって拍手をした。

……えーと、ブラヴァって女性に送る言葉じゃなかったっけ……まあ、女形だからいいのか???


テオさんはご満悦で彩乃くんの周囲をぐるぐる回って、着物や帯、鬘を興味深そうに見ていた。

何か早口の英語で褒めてはるようやけど、遠いので聞き取れず。


私はそっとお稽古場を出た。

お花を活けに水屋に戻ると、義人くんが来た。


「いたいた。あきちゃん、呼んでくれてありがとう。やっぱり天女やね、あれは。」

「間に合ってよかった。もっと早く聞いてたら一緒に来たのにねえ。」

「……あ~……」

義人くんが頭をかいて言い淀んだが、苦笑しながら言った。

「頬に口紅の跡がついてるわ。」


え!?

あ……そういえば、さっき!

私は慌てて頬を手の甲で擦った。


「女の子の頬にキスマークって珍しいな。それじゃ取れへんわ。」

義人くんは、そう言いながら自分のハンカチを濡らして拭いてくれた。

大きな手と骨ばった指に、「男」を感じてドキドキした。


いつも笑顔の義人くん……でも近くで見ると、目は笑ってなくて……それがまたかっこいいというか……。

つい、義人くんの目の奥を覗き込んでいると、義人くんの顔がゆらっと揺れて般若のように歪んだ。

「おいおい。こんなことでよろめくとかやめてや。あきちゃんは、一生、彩乃だけ見とって。彩乃を裏切ったら許さへんで。」


「なっ!よろめいてません~!言われんでも、彩乃くんにしか惚れません~!自惚(うぬぼ)れるのもたいがいにしぃやっ!」

思わず、じたばたと両手を振り回してそう叫んだ。


すると義人くんは、しーっ、と人差し指を唇にあてて、ウインクした。

「ほんならよかった。頼むで。あきちゃんを見込んで彩乃を託すんやから。」

冗談めかしてるけど、目が本気だった。


私は、顔を上げて真剣に言った。

「わかった。交換条件じゃないけど私も義人くんに頼みがあるねん。」

「……なに?」

「彩乃くん個人の後援会の会長になってください。」

私の頼みは、義人くんには意外だったらしい。


「後援会って……」

「うん。芳澤流の後援会はお家元が何十年もかけて組織してはる堅固なもんやけどね、『綾之会』を立ち上げるなら後援会を新たに作っていいんじゃないかって思って。何するにもお金がかかるから、寄付金はナンボあってもうれしいな、と。あ、もちろん税制措置を受けられる団体認定されるよう申請手続きはしておくんで。」


私が簡単にそう説明すると、義人くんはクッと笑った。

「あきちゃん、ほんま、しっかりしてるわ。OK。父に言うとくわ。」

「ありがとう。これで、彩乃くんのスポンサーと同時に、私の後ろ盾確保。助かるわ。」


ホッとして私がそう言うと、義人くんは今度は快活に笑った。

「……しっかりというか、ちゃっかりやな。」
< 142 / 203 >

この作品をシェア

pagetop