彼は藤娘
「登校するだけでこんなに大変とは思わんかったわ。」
疲れきってる燈子ちゃん。

「腕とか脇、痛くない?」
せめて校内だけでも車椅子を借りると楽だと思うのだが、燈子ちゃんはこの機会に上半身の筋肉を鍛えることにしたらしい。

「痛いで。すっかり筋肉痛。ストレッチしたい。」
燈子ちゃんはコキコキと首を鳴らして肩と背中をのばそうと体をひねっていた。
「あかんの左足首だけやし、イロイロできることはあるのになあ。練習場の端っこ使わせてほしいって交渉しようかな。うーん。」

燈子ちゃんの言葉に、ハッとする。
あるやん、練習場。
広くて鏡張りでバー(手すり?)までついてる!
「燈子ちゃん、ジャージある?」

燈子ちゃんは、首をかしげる。
「あるよ。体操服もクラブジャージもレオタードも。」

「いや、レオタードはやめとこう。ほな、今日から練習場確保。ちょっと賑やかやけど。」
私は、すぐに彩乃くんにラインでお願いした。


放課後。
いそいそと職員室へ向かう奈津菜をからかって、私たちは帰路につく。

バスと阪急で移動して彩乃くんと合流する。
「怪我したばっかりやのに、もう、体動かして大丈夫なんか?」

「足に力入れなければ大丈夫やと思う。ごめんね、お家にまでお邪魔して。」
燈子ちゃんは申し訳なさそうにそう言った。

「いや、母親がめっちゃ喜んでるわ。ケーキ焼いたらしいし、食ってってやって。」

これはたぶん、夕食も引き留められるな。
2人がお稽古してる間、私、英語と古典の予習やってようかな。

……な~んてこと、思いついても実際にはできるわけもなく。
いつも通り、私は彩乃くんのお稽古にポーッと見とれていた。

ジャージに着替えた燈子ちゃんは、仕切り一枚隔てた事務所の喧騒と、それをものともせず清元に集中して舞う彩乃くんを興味深く見ながら、丁寧なストレッチで体をほぐしていた。
「なるほどなあ。この環境でお稽古してはるんや。そりゃ集中力ないとできひんね。」

燈子ちゃんの言う通り、清元だって決して大音量で流しているわけでもない。
「……ちっちゃい頃は、この仕切り、開きっぱなしでお稽古してたらしいよ。」

その頃の写真やビデオを見てても、彩乃くんの打ち込み具合はすごいと思う。

「あきちゃん、魂、奪われてる。そっか~。彼、いい人やとは思うけど、あきちゃんにとってはそれだけじゃないんやねえ。納得。」
燈子ちゃんがしみじみそう言った。

「うん。舞台ではもっと素敵なの~。あ、ゴールデンウィークの舞台、見に来ぃひん?」

そう誘うと、燈子ちゃんはうなずいた。
「見たい。おもしろそう。で、これは、何て演目?」

「……『保名(やすな)』。」
私はちょっと顔を曇らせた。
< 90 / 203 >

この作品をシェア

pagetop