オフィス・ラブ #∞【SS集】
「冷やした?」
「いや、隠すのが精一杯で」
そうか、ケンカの現場からそのまま生活指導にしょっぴかれたから、冷やすどころじゃなかったんだ。
私は裁縫室にいるらしい母に出会わないようにそろっと1階へ下り、浅い洗面器に氷水をつくって2階へ戻った。
貴志の部屋のローテーブルにそれを置き、腕ごと浸けさせる。
今から冷やして意味があるのかわからないけれど、やらないよりマシだろう。
「痛い?」
「焼かれた時は、目がチカチカした」
軽く笑ってくれる兄を安心させたくて、私もつられたふりをして笑う。
もう火ぶくれになりはじめている丸い炎症は、見た感じ、そう深そうでもなく、それだけは安心できたんだけど。
これ、完全には、治らないよね…。
「病院行こうよ、先生のとこ…」
お世話になっている皮膚科の名医が近所にいるので、そう持ち出したところ、貴志はきっぱりと首を振った。
「父さんたちに、迷惑がかかる」
言いたいことは、わかる。
狭い地域コミュニティで、どう噂が回るかわからない中、地元の人たちを相手に商売をしている親への影響は一番恐ろしい。
相手の親も同一地域内にいるとなれば、なおさらだ。
貴志の、父への傾倒は幼い頃から不思議なほどひたむきで。
それがわかるだけに、無理強いはできなかった。
傷は右ひじの内側の、ちょうど折れ曲がるところに大小ふたつ、重なるようにあり。
見えにくいといえば見えにくい場所だけれど、これでは癒えるまで、腕を曲げるたびに痛むに違いない。
半袖でも隠せないところに、わざわざこんな痕をつけるなんて、どれだけ腐ってんの、あの男。
隠れるとこならいいってものでも、ないけど。