オフィス・ラブ #∞【SS集】
「スクランブルエッグ。淳でいいよ、みんなそう呼ぶから」
冷蔵庫の野菜室をのぞきながら、この週末に買い足す必要のある食材をチェックしていると、背中にばしんと衝撃が来る。
驚いて振り向くと、かんかんに怒った様子の彼女が小さなまな板を手にして立っていた。
「ほんとに何も覚えてないのね。それは無理だって、言ったじゃない!」
「無理って?」
意味がわからず問い返すと、自分で考えれば、とぷりぷりしながら野菜を洗いはじめる。
ゆうべ、この話を、もうしたということか。
無理って、どういうことだろう。
うーん、と考えて、思いついたことを言ってみる。
「元彼の名前とか?」
今度は濡れ布巾が飛んできた。
「考えろって言うから、考えたのに」
「あなた、とても38歳とは思えない」
「よく言われるよ。きみは、いくつ?」
見惚れるような手際で彼女が用意してくれた昼食を、ダイニングに並べる。
フォークなどを出しながら尋ねると、彼女がまた、ぴくりと反応した。
これも地雷か。
いったい自分はゆうべ、どんなやりとりを交わしたんだろう。
「どうしてそんなに、何もかも忘れたの」
「歳のせいだと思うんだよね」
「そういう時だけ、歳相応ぶらないで」
メイン、サラダ、スープと、バランスよく整えられた食事は、おいしく。
極力味つけは控えめに、各自が調味料で好きに食べればいいようになっている。
よく知らない相手のために、こういう手法をとったんだろうことがわかり、大森は感心すると同時に嬉しくなった。
怒ってばかりだけど、すごくきちんとした、いい女性だ。
全然覚えていないけれど、やっぱり自分は、見る目をなくしてはいなかった。
もっとにこにこしてくれたら可愛いのに、と我ながら無責任なことを考えながら、久しぶりの、誰かと一緒の食事を楽しんだ。