オフィス・ラブ #∞【SS集】

大学の楽しさは、なんだかまだ、いまいちよくわからない。

選んだ講義も、ほんとにこれでいいのか不安になりながら、とりあえずクラスの子とそんなに違わないようにした。


やりたいことが、ないわけじゃないんだけど。

高校までの生活と、ここは違いすぎて。

とりあえず、それを吸収するだけで、今は精一杯。


真新しい手帳に挟んだ、四角い小さな紙を眺めていたら、移動しようよ、とクラスの子に誘われた。

東京のど真ん中にあるこの大学は、狭い校舎があちこちに散らばっていて、教室移動するのに線路を渡らなきゃいけない。

キャンパスって雰囲気なんか、全然ない。


手帳をバッグに入れて、講義室を出た。





「奈保っていいます、あの」



あなたは? と訊こうとしたけれど、なんて呼びかけていいのかわからなくて困った。

お兄さんは? って歳じゃないし。

おじさんって感じでは、全然ない。



「しんじょう」



私が言葉を探しているのが、どうしてかわかったみたいで、その人は短く言った。



「…どういう字?」



いくつか、漢字に種類があるなと思って、そう尋ねると、「しんじょうさん」はタバコを持っていないほうの手で、空中に文字を書こうとして、途中でやめた。

持ってたタバコを口にくわえると、ジーンズの後ろのポケットから財布を出して、そこから何かを抜きとって、あたしに差し出す。


あたしが人生で初めてもらった、名刺。



『新庄貴志』



この人に、ぴったりな字だと思った。

< 3 / 206 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop