オフィス・ラブ #∞【SS集】
大学の楽しさは、なんだかまだ、いまいちよくわからない。
選んだ講義も、ほんとにこれでいいのか不安になりながら、とりあえずクラスの子とそんなに違わないようにした。
やりたいことが、ないわけじゃないんだけど。
高校までの生活と、ここは違いすぎて。
とりあえず、それを吸収するだけで、今は精一杯。
真新しい手帳に挟んだ、四角い小さな紙を眺めていたら、移動しようよ、とクラスの子に誘われた。
東京のど真ん中にあるこの大学は、狭い校舎があちこちに散らばっていて、教室移動するのに線路を渡らなきゃいけない。
キャンパスって雰囲気なんか、全然ない。
手帳をバッグに入れて、講義室を出た。
「奈保っていいます、あの」
あなたは? と訊こうとしたけれど、なんて呼びかけていいのかわからなくて困った。
お兄さんは? って歳じゃないし。
おじさんって感じでは、全然ない。
「しんじょう」
私が言葉を探しているのが、どうしてかわかったみたいで、その人は短く言った。
「…どういう字?」
いくつか、漢字に種類があるなと思って、そう尋ねると、「しんじょうさん」はタバコを持っていないほうの手で、空中に文字を書こうとして、途中でやめた。
持ってたタバコを口にくわえると、ジーンズの後ろのポケットから財布を出して、そこから何かを抜きとって、あたしに差し出す。
あたしが人生で初めてもらった、名刺。
『新庄貴志』
この人に、ぴったりな字だと思った。