鬼課長の憂鬱
「速水君。あんた、また部下を怒鳴ったんだって?」


 俺、いや俺達は、行きつけのバーに来ている。行きつけと言っても週に1回来るか来ないか程度だが、会社からほど近く、窓からの景観が良く、意外に安いので気に入っている。

 時には一人で来る事もあるが、たいていは同期の野田恵子と来ている。野田とは不思議と馬が合い、いわゆる腐れ縁というやつだ。

 野田と何度か寝た事はあるが、最近は距離を置くようにしている。深入りしたくないからだ。それと……

 野田は俺の忌々しい経験を知る、唯一の人物でもある。


「ああ、そうだったかな。よく知ってるな?」

「総務を舐めないで」


 野田は総務に所属している。一度も異動はなく、総務ではしっかり古株だ。そういう俺も同じなのだが。


「あんた、陰で“鬼課長”って呼ばれてるの知ってる?」

「ああ、知ってるよ」


 廊下で部下の誰かがそう言っていたのを聞いた事があった。まったく、人っていうのは陰口が好きなもんだな。


「そういうの、流行んないよ?」

「そういうのって、どういう事だ」

「ん……一言で言えば、熱血?」

「バカ言え。そんなんじゃない。ただ、腹が立つだけだ」

「疲れない?」

「それはまあ、疲れるな」


 野田の言う事は解る。腹が立っても態度に出さず、注意する時は穏やかに、理解のある上司を演じる。目立つ事はせず、失敗しそうな冒険もせず、上司のご機嫌を窺い、昇進を待つ。部長のように。

 そんな生き方の方が楽な事は俺も知っている。だが、それが俺は出来ないのだ。というか、したくないのだ。馬鹿馬鹿しくて。

 俺は言いたい事を言い、やりたい事をやる。それで敵を作っても構わない。部下に嫌われようが平気だ。課長なんてポストに執着はないし、未練もない。俺はそういう男なんだ。

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