【完】『ふりさけみれば』
春が、近づいていた。
横須賀の春は、暖かい潮風に乗ってどこからともなく薫ってくる菜の花の香りで始まる。
「坂道が辛くなってきたなぁ」
そういうみなみのお腹は、すっかり目立っている。
三月いっぱいで退社が決まったみなみは、市役所から母子健診の説明を受けたり、育児手当の資料を貰ったりと、一般的な妊婦と変わらない日々を送っていた。
一慶はというと。
例の大型ドラマの原作者という立場から、監修や打ち合わせで渋谷のテレビ局へ出向いたり、ロケ先の茨城まで、愛車の真っ赤なドラッグスターで出掛けたり…と、何とも慌ただしい毎日である。
前に書いた童話も、出版が決まった。
『サイドカーZ』
という、あまり童話らしくないタイトルが逆に受けたようで、
「また書いてくださいって読者カードがこんなに」
と吉岡から渡された段ボール箱は、意外に重かった。