海は悲しきものがたりいふ
帰宅後、いつも通り両親と静かな夕食を彩瀬抜きで済ませてから、私はお台所を借りた。

「一日遅いんじゃないの?」

と、母は苦笑していた。


練習が終わるまでに間に合うかな。

時間も材料もなかったのでシンプルなガトーショコラ。


ついでにココアをミルクパンで煮立たせてると、玄関の鍵の開く音が聞こえた。


彩瀬?

そのまま音が消えてしまう。

気のせい?

何となく気になって、火を消してから玄関へ。


鍵は開いている?

ドアスコープから外を覗いて、ぎょっとした。


彩瀬、地べたに座ってる?

ドアを開けても、彩瀬は顔を上げなかった。


「彩瀬?」

しゃがみ込んで顔を覗く。


青白い顔……

目の焦点が合ってない。

……血と体液の変な匂いがする……なに?


よく見ると、彩瀬の唇の端、えり、手の甲……あちこちに黒い血がこびりついていた。

怪我した?

一体……どうしたの?


「彩瀬、とりあえず、お家(うち)入ろうか?」

私はそう声をかけて、彩瀬の手を取った。


彩瀬は、緩慢な動作で私を見る。

「あー。」

私を見てるはずなのに焦点がやっぱり合ってないような……どこを見てるのかわからない。


「彩瀬、立てる?」

彩瀬は私の手に力を入れて立ち上がったけれど、足元がふらつくらしい。

「ゆっくり、ね。」

全身で彩瀬を支えて、何とか家に入り、彩瀬の部屋へ連れて行った。


ウェットティッシュで彩瀬の唇の血を拭いとる……切れてはいないな。

この血、誰かの返り血だったりする?

ドラキュラじゃあるまいし、血を吸ったとかじゃないよね?


「彩瀬、ココア飲む?チョコレートケーキも焼いたけど、食べられんよね?」

「……」

何かつぶやいたようだったけど、聴き取れなかった。


「彩瀬?」

もう一度そう呼びかけて、彩瀬の顔を覗きこむ。


彩瀬は笑っていた。

声を出さず、眉根をひそめて、苦しそうにお腹を抱えて、不愉快そうに、笑っていた。


正気じゃない。

明らかに、おかしい。

これって、ドラッグか何か?


「お水なら、飲める?持ってくるね。」

私はそう言いながら後ずさりして、立ち上がろうとした。


「……せない」

彩瀬に腕を取られ、強く引っ張られた。


「ちょっ!危なっ!」

バランスを崩して、彩瀬の膝元に引き倒された。


「行かせない……行かせないから……」

何度もそうつぶやきながら、彩瀬が私にのしかかる。


息が荒い。

血なまぐさい……それだけじゃない、胃液の匂い?

もしかして、血でも吐いたのかな。


青白い顔に、瞳をギラギラさせて、獣みたいな彩瀬。

理性も正気も失って、やっと私を求めてくれるのか。


不思議と、怖くはなかった。

どうせなら、らぶらぶムードで甘いHがしたかったけど……ま、いいや。

例え、薬でラリってても、彩瀬は彩瀬。

私がずっと恋い焦がれた唯一無二の存在。


ようやく、夢が叶う。


……痛みしか残らなかったけれど、私は頭で満足していた。

やっと彩瀬に抱かれた。


もう、死んでもいい。
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