貴方がくれたもの
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道子は初々しい波の中で、呆然と立っている。
新歓の勧誘や新入生の親も含めて、ひしめき合っている中庭は、ほとんど動ける状態ではなかった。
朝のラッシュより酷いのではないだろうかと道子はひとりごちる。
混雑を抜けた時には、道子のスーツはシワだらけだった。折角祖母に入学祝いと言って新調してもらったのだ。
帰ったらすぐクリーニングにださないと。
道子は足早に駅に向かった。
間借り期間は延びて、道子は祖母の家から大学に通うことになった。
それも、元から努力家であるために、駄目元で目指した国立大学に合格できたからだった。
母は東京の私立大でいいじゃないかと最後まで反対したが、父が快く承諾してくれたので、うまく諭してくれているだろう。
大学では法律を勉強する予定である。
道子の目的である社会を知るためにはそれがいいだろうと父が勧めてくれた。
就職先も困ることはないだろうという口添えもあった。
家に着くと、絵葉書が届いていた。
柳之介からのものだった。
道子にとってのあの最後の大会で、柳之介はやはり優勝した。
そして今、その副賞である遊学権を使ってプラハにある音楽院に通っている。
大判の絵葉書は、ステンドグラスが煌びやかに色付いていた。
道子の趣味をよくわかっているな、と思う。
道子は幼い頃からきらきらしたものが大好きだった。
CDの歌声についても、きらきらしてる、と言って父に散々聴かせていたことがあった。高架下での歌声は、星の瞬きとして道子の心に残っていた。
「みっちゃん、絵葉書がきてるんだけどね」
地元の訛りで祖母が帰宅した道子に話しかけた。
「うん、今見てるよ」
道子はそう言って、顔を出した祖母に絵葉書を振ると、早くスーツを脱いでしまおうと自室に向かった。
以前父が使っていたという和室は、低い卓が置かれていて、道子はそこで勉強をする。
父の時からあるそうで、道子は父も使っていたということに励まされながら、一年を乗り切ったのだ。
部屋着に着替えると、畳に寝転がる。
文字を追うのをためらって、道子は卓上に置いてあったCDプレイヤーを手繰り寄せた。
四曲目を再生する。甘く、優しい恋の歌。愛を囁く英語の歌詞とスロージャズ。
道子は一度目を瞑り、心を落ち着けてから手紙を読んだ。
『道子へ
大学入学おめでとう。
君のお父さんから聞いたよ。法律を勉強するんだろう。俺にはわからない世界だけど、道子ならきっとできるよ。俺が言うんだから間違いないよ。
俺は今、ウィーンにいます。プラハの音楽院で指導してくれている先生に同伴して、ウィーン交響楽団の演奏会を聴きに行くんだ。
運が良ければオーボエの主席奏者に会えるかもしれない。チェロの人たちと話すことがあったら道子の自慢をしておくよ。すごい努力家で俺の一番好きなチェリストなんだって。
君がもしこれを読んでくれていたら、怒るだろうね。デリカシーがないって。
最近わかってきた気がするんだ。
いろんな世界をみて、君の言っていたことが。確かに昔俺はデリカシーが無かったと思う。それについてはあやまるよ。
でもさ、また改めて言うよ、道子は俺にとって一番のチェリストで、一番の努力家で、一番好きな人なんだ。
余白がもうないからこれ以上君を説得する言葉は書けないけれど、頑張れ。
俺は君を誰よりも応援してる。
南柳之介』
水性インクで書かれた文字は、読み終わると所々ぼやけていた。
それを見て、道子は声をあげて泣いた。
今まで溜めてきたものを全て吐き出すかのように泣いた。
嬉しくて、虚しくて、悔しくて、切なくて、不安で、泣いた。
柳之介が変わらず自分を思ってくれていることが、
自分には音楽の才能が欠片も無く、努力を無にしてしまうことしかできなかったことが、
柳之介にこの手紙を読んでいると言えないことが、
これから進む先に何があるのかわからないことが、
道子の胸中をぐるぐると回り、耐えきれず、次々に涙が零れおちる。
震える手で起き上がり、道子は自室を出て、物置に向かった。
しゃくりあげながら歩いて行ったから、廊下で響いて、きっと祖母の耳に道子の喚く声は聞こえているだろう。
それでも、様子を見には来ないところが、父に似ているなと混乱する頭の片隅で思った。