⁂初恋プリズナー⁂

日中の唸るような暑さは、幾分か和らいではいるものの、それでも通りすぎる風は熱気を含んでいる。

手を団扇代わりに仰いでいると、急に河原さんが駅とは違う方向に歩き出した。


「か、河原さん?」


呼び止めると、一瞬だけ振り返り、ついて来いと言わんばかりに歩みを進める。

さっき戻しちゃったし、早く帰りたいんだけど……。

時計見るとまだ早い時間で、折角仲良くなれた気がするので、もう少し無理をしたい気もする。

ご飯を一緒に食べず、ただ黙って連れて行かれるものなら、疑心暗鬼そのものだっただろうけど、2人で過ごした僅かな時間は確実に距離は縮めた。

苦手意識しかなかったのに、人との歩み寄りって大切だな、なんて。

自信がなくて、今まで人との間に作ってきた壁が、ほんの少しの勇気で進展するのだと感慨深いものだ。

でも、行って長引きそうな用事なら、途中でお暇させていただこう。


着いた先は、真新しいビルだった。

河原さんは躊躇わずに、真っすぐ入っていく。

一体どこに行くんだろう……。

妙な緊張感を孕み、黙ってついて行く。

エレベーターにのって着いた階を右手に進んだ角で、河原さんは立ち止まる。

フローラ硝子の扉に『みゆきレディースクリニック』と書かれた看板が小さく下げられていた。


「此処、夜中までやってて仕事帰りのOLに重宝されてるクリニックなの」

「河原さん……具合悪いんですか?」


1人で来に難くて私を誘ったのね。

私は口が堅い、という意味で信頼してもらえる対象になれたのだと思うと、ちょっと嬉しいかも。


「私じゃなくて、黒川さんよ?」

「えっ??」

「だって最近ずっと体調悪そうじゃない?早苗さん、クールにして見えるけど仕事中に席を外して居なくなる黒川さんを相当気にかけてるのよ?1度きちんと診てもらって、はっきりさせた方がいいんじゃない?」


何を意味しているのか解らず、戸惑っていると、さっさと扉を開けて中に押し入れられる。

こんばんは~と柔らかな雰囲気で受付から声を掛けられ、河原さんが「保険証だして」と私を急かす。

私が戸惑ってる間にも河原さんは「初診なんですけど」と受付をしている。

保険証を促され、問診表まで受け取られ、私は拒絶のタイミングもなく財布から保険証を出すしかなかった。

これが金融関係なら恐いものだ……。
< 158 / 261 >

この作品をシェア

pagetop