フキゲン課長の溺愛事情
「あんな形で抱くべきじゃなかった」

 低く静かな声なのに、彼のその言葉は鋭利な刃物のごとく璃子の胸に突き刺さった。

(抱くべきじゃ、なかった……)

 その言葉が何度も耳にこだまする。

 まだ達樹がなにか言っているのが聞こえるが、もう璃子の耳にはなにも入ってこなかった。二、三歩よろよろと後ずさり、くるりと背中を向けて歩き出した。

 ホテルの廊下を小走りで抜け、エントランスを出てからは夢中で走った。走って走って、気づいたときには駅に着いていた。肩を上下させて荒い呼吸をしているうちに、目の前がにじんでくる。

(ご祝儀袋、渡せなかったけど……忘れる方が悪いんだよね)

 上を向いて瞬きをして、涙を散らそうとする。けれど、込み上げてくるものはあまりに熱くて、今にもあふれそうだ。

「……うっ」

 泣きたいときに胸を貸してくれた人に、もう頼ることはできない。
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