フキゲン課長の溺愛事情
 それは、かつて誰かが――女性が――達樹と一緒にあの部屋で暮らしていて、荷物をなにもかも持って、カーテンだけを残して出ていった、ということなのだろうか。

「ひとりが……嫌なんですか?」
「そう。ただそれだけ。男でも女でも誰かがいてくれたらいいと思ってた。だから、水上に特別なことは期待していないし、水上も俺を警戒する必要はない。俺に気を遣う必要も俺と仲良くする必要もない。ただのルームシェアで、文字通りの間借りだ」

 友紀奈とのやりとりを思うと、一刻も早くあの部屋を出て行きたい。そう考える璃子にとって、達樹の提案はこのうえなくありがたかった。けれど、これまでさんざん社会的にどうとか世間的にこうとか理屈を捏ねてしまったので、達樹の厚意を素直に受けにくい。

 璃子がなにも言わないでいると、達樹が小さく肩をすくめた。

「無理強いはしない」

 達樹が歩き出そうとしたので、璃子は反射的に彼のジャケットの裾を掴んでいた。

「なんだ?」

 達樹が振り返って璃子を見た。その無愛想な顔を見て、璃子は彼の気が変わる前に、とあわてて言う。

「あのっ、すみません、やっぱりお願いします!」
「つまり、契約成立ということでいいんだな?」
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