あの頃の私は知らない。
けれど、段々と彼の表情が曇っていくのを見て、何か良くないことが起こったのをくみ取った。
「もう一時間くらいしたらスタートだし、……うん、あ、いや」
私をちらりと見て、彼は表情を変えた。携帯を耳に当てたまま何かを考えているようだった。
「……ちょっと待ってて、何とかしてみる」
そう言って通話を切った彼は、少し考えるように視線を漂わせた。
しばらくして、決心がついたように改まった様子で私に向き直った。
「キーボード担当が、こっち来られなくなったらしい」
「え、大丈夫なの?」
「あんまり大丈夫じゃないから、ちょっと今から俺の話聞いてくれる?」
「……?」
何となく、あの暑い夏の日の放課後を思い出した。
音楽を教えてと頼んできたときの雰囲気に似ていた。
「俺の音楽の原点は宇佐美で、中学一年の夏が自分の中でずっと鮮明に残ってるんだ。宇佐美に近付きたくて、隣に並びたくて、ずっとそう思いながら音楽を続けてた。その気持ちは今でもずっと変わってない」
彼のきらきらした瞳から、目を逸らせなかった。意志の強さが視線から伝わる。
「代役頼めそうな人、宇佐美しかいないんだ。宇佐美なら初見でも弾けるし、何より俺が宇佐美に頼みたい」
そっと指先に温もりが伝わる。
「だから、宇佐美、今日だけでもいいから、一緒に音楽をしてほしい」