ウサギとカメの物語


ボーッとしている神田くんの背中を、こっそり叩いた。
叩かれた本人は何がなんだか分からないような顔で私を見ている。


「追いかけろ、神田!」


思わず呼び捨てになってしまったのは申し訳ない。
でも心の声がそのまま出てしまった。


とにかく神田くんに追いかけてほしかった。
今、彼女を慰められるのは君しかいないという思いで。


神田くんは戸惑った表情のまま、イスにかけていたジャケットを引っつかんで事務所を出ていった。


やがて、藤代部長がポリポリと髪の毛の薄い頭をかきながら私たちの元へやって来た。
その顔は何故か満面の笑顔だった。


「いや~、とりあえずお疲れ様!まず一件落着ってことでいいね。事務課のみんな、大変だったね~。あと帰っていいからね」


部長の一言を皮切りに私たちはデスクの上を片付け、そしてゴミ袋を元に戻し、何事も無かったかのように綺麗に整頓するとそそくさと事務所をあとにした。


廊下を歩きながら、奈々が眉を寄せて小声で私に話しかけてくる。


「ヤバかったね、熊谷課長。本性出ちゃった感じ」

「うん………」

「コズ、めちゃくちゃショックだったんじゃない?大丈夫?」

「平気だよ~」


だってその本性、知ってたから。
あそこまで酷いとは思ってなかったけど。


奈々は今度は私たちの少し後ろを歩くカメ男の方をくるりと向くと、興味深げにヤツの肩を叩いた。
ちょっとニヤニヤ笑いながら。


「ねぇ、須和。あんた今日の指示冴えてたね。あんたの本性もほんとはそれ?」

「いや、偶然思いついただけ」

「あははは、だよね~!」


大笑いしている奈々を見て、私はひっそりと、ほんとにひっそりと。
違うよ、奈々。
って訂正した。


カメ男は仕事が出来るんだ。
それを今日は間近で見て実感した。
的確な指示があったから、思っていたよりも早く仕事を終えることが出来たんだ。

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