ウサギとカメの物語


大浴場から出てすぐのところに無料で冷たい麦茶を飲める小さな休憩所があって、そこで紙コップに麦茶を注いで古びた座椅子に腰かけた。


紺色の控えめな旅館の浴衣に身を包んだ私は、着替えを抱えて冷えた麦茶で喉を潤しつつ、そばにある自販機に目を向ける。


お、と目を瞬いた。
かの有名な高級アイスメーカーのバニラアイスが、温泉ならではの割増価格で売っていた。


買おうかな〜、どうしようかな〜。でもちょっと高いな〜、って迷っていたら。
その自販機の前を須和が通り過ぎた。


「あ、須和!」


思わず声をかける。
ヤツはのそのそゆっくり歩いていた足を止め、私の姿を確認すると首をかしげた。


どうやらカメ男はこれから温泉に入りに行くらしい。
タオルを持って、すでに浴衣を着ていた。


「今からお風呂?」

「うん。そっちは入ったの?」

「今上がったところ」


へぇ、と大して聞いてないような返事をして、カメ男は私の顔をじっと見つめてきた。


なんだ、この視線は?
すかさず眉を寄せて警戒していると、ヤツはボソッとつぶやいた。


「あんまり変わらないね」

「なにが?」


すぐに聞き返したら、ヤツは持っていたタオルで私の顔をバサッと撫でると


「すっぴん」


とだけ言って、男湯の方へ歩いていってしまった。


私は眉を寄せたままの表情で、ヤツの言葉の意味を探る。


メイクしてる顔とすっぴんがあまり変わらない?
褒めてるの?けなしてるの?
伝わらないんですけど……。
言葉だけじゃなくて表情も足りないよね、カメ男って。


そして、さっき宴会場から連れ出してくれたお礼を伝え忘れたことを思い出す。
きっともう今夜は会えないから。


ちゃんと「ありがとう」って言えばよかったな、と後悔した。


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