ウサギとカメの物語
その日の帰り。
この時期の仕事は定時では終わらないので、1時間半ほど残業した帰りのこと。
刺すような寒さの中、マフラーに顔をうずめながら会社を出るとすぐに神田くんに遭遇した。
「あ、お疲れ様〜」
「大野さん、お疲れ様です!」
神田くんは明るいグレーのダッフルコートを着ていて、それは童顔の彼によく似合っていた。
彼も電車通勤なので、私と一緒に駅方面へ歩く。
その途中で、神田くんが思い出したように「そういえば」と大きな目をいっそう見開いてこちらを見つめてきた。
「聞きましたよ、岩沼にヘルプに行くって話」
「あぁ、そうなの。今日急に言われたんだ〜。初めてヘルプなんて行くからちょっとドキドキなんだよね」
「誰にでも出来ることじゃないですから、きっと大野さんなら大丈夫ですよ!」
おうおう、嬉しいこと言ってくれるじゃないの〜。
お姉さん、涙がちょちょぎれちゃうよ。
カメ男もこれくらいのこと言ってくれればなぁ。
少しは気が楽になるんだけど。
もうヤツのことが好きだって自覚してから、頭の中はカメ男だらけな私。
なにかにつけて登場しては、脳内をかき回していくんだよね〜あいつったら。
白い息を吐きながら、コートのポケットに手を突っ込む。
あれ、手袋が無い。
もしかして落としたかな〜。
それともロッカーに置いてきちゃったかな。
なんにせよ、指先が冷えて寒い。
「大野さんって、彼氏とかいるんですか?」
なんの前触れも無くあまりにも自然に神田くんに尋ねられたから、
「いないんだよねぇ、これが。すっごい好きな人はいるんだけどさぁ」
と、ついついいらないことを付け加えながら答えてしまった。
「え、好きな人いるんだ!俺の知ってる人ですか?」
「は、しまった!」
私ってばほんと単純。
思ったこととかすぐに口にしちゃうからこうして余計な情報を拡散しちゃうし。
お口にチャックしないとダメだな。
神田くんはなんだか嬉しそうに笑っていて、社内に好きな人がいることは完全にバレてしまった模様。