ウサギとカメの物語
給湯室を出る間際に、まだコーヒーをフーフーしているカメ男におそるおそる問いかけた。
「あの鍵、今日使ってもいい?」
ヤツの目が少し驚いたようにメガネの奥でなんとなく見開かれているのが確認できた。
そしてその目はすぐに元に戻り、カメ男の口元がほんのちょっと緩んで笑みがこぼれる。
「好きな時に、いつでも」
「………………もしかしたら、毎日使っちゃうかも」
呆れられるかな、と思いつつどんな反応をするのか試したくなって言ってみる。
するとヤツは静かにコーヒーカップを台に置いて、一歩足を踏み出してきた。
カメ男の手が私の後頭部に回って、今日は結んでいない髪の毛をすくうように引き寄せられた。
掠めるようなキスをしたあと、何事も無かったかのように手を離したカメ男は、呆然とする私に
「そういうことは職場で言わないで。毎日来て欲しくなるから」
と、まるでどこかのお父さんみたいな口調でとんでもなく甘いセリフを言うのだった。
…………こいつってこんな裏の顔を持ってたのね。
しれっとして破壊力抜群のことを言うなんて、これ以上好きにさせないでほしい。
すっかり熱くなった顔をパタパタと手で扇ぎながら廊下を足早に歩いた。