ウサギとカメの物語
バーチャル熊谷課長は、もっとこう……なんていうか時間をかけてじっくり私を口説いてきて、とっても紳士的に笑いかけてきてくれて、まさに理想そのものを思い浮かべてたんだけど。
いや、待てよ?
1ヶ月の間に何回か食事したし、それまで手を出してきたりはしなかった。
ということは、ある意味理想通りってこと?
じゃあなんなの、私。
何がいけないんだろう。
なんで、なんで……━━━━━。
ほとんど駆け足で課長を追うようにお店を飛び出したところで、ドンッ!と勢いよく課長の背中に突っ込んだ。
鼻が潰れて、「いたっ!」という小さな悲鳴を上げてしまうほど勢いづいていた私。
どうしてこんなお店の真ん前に突っ立ったまま課長が動かないのか、潰れてツーンと痛んでいる鼻を押さえて
「課長?どうかしましたか?」
と聞きながらヒョイと課長の背中から離れると。
熊谷課長の前に、なんと、なんと。
須和がいたのだ。
ヤツはヤツで驚いているらしくメガネの奥の目がまぁまぁ見開いていて、相変わらずのボッサボサの髪の毛が夜風に吹かれてゆさゆさ揺れていた。
カメ男の右手には通勤用の黒い革の鞄と、もう一方の手にはコンビニ弁当がビニール袋に入ってぶら下がっている。
さすがに社内の人間に2人でいるところを見られて、熊谷課長も若干焦ったような表情を浮かべてカメ男を見つめていた。
うわー、最悪だ。
よりによってカメ男に2人での場面を見られるなんて。
しかもホテルに行くか行かないかの瀬戸際って時に。
「えーと、君は確か……」
熊谷課長はカメ男の顔を見てそこまで言うと、ちょっと悩ましげに眉間にシワを寄せた。
すぐにヤツが「事務課の須和です」と自己紹介している。
やっぱりさ、地味だから。
この人って仕事は真面目にこなしてるけど、とにもかくにも地味だから。
きっと課長も、ヤツの顔は分かってるけど名前が出てこなかったんだろうね。