ウサギとカメの物語
「あぁ、そうだ。須和くんね。いやぁ、偶然だね、こんなところで。今日はノー残業デーだから寄り道かい?」
熊谷課長は男相手でも爽やかな笑顔を絶やさない。
会社にいるほとんどの女子社員を虜にするその笑顔を持ってしても、カメ男は特に愛想笑いなどを浮かべることもなく。
ただ淡々と、その代わり丁寧な言葉遣いで
「はい。本屋に寄っていました。ちょうどこれから帰るところです」
と返すと、チラッと私の姿を見てから再び課長へ視線を戻した。
「お2人はデートですか?」
「い、いや……デートっていうか……」
しれっと普通のトーンでなかなかのぶっ込んだ質問をぶつけてきた地味な事務課の男に、熊谷課長は完全に困惑していた。
私はというと、ボロが出ても困るから余計な発言はするまいとひたすらうつむくばかり。
「たまたま退社のタイミングが一緒になってさ。それで食事でも、っていう話になっただけなんだ。ね、大野さん?」
うまい言い訳を思いついたという感じで課長がそう言って、そしてぶしつけに私に同意を求めてくる。
課長……。
このカメ男は私たちのこと知ってるんです……。
だから余計な言い訳をすればするほど滑稽なんです……。
でももちろんそんなことは言えるはずもないので、苦笑いとともに「はい、そうです」とうなずいておいた。
もうこうなったらこの状況を利用してホテルに行くっていう話、流れてくれないかな。
だってこんな微妙な気持ちで行けるわけないし、うまいこと帰る方向で話を進められたらどんなにいいだろう。
もはや祈るような気持ちでカメ男に「助けて」ビームを浴びせた。