とっくに恋だった―壁越しの片想い―


「あのね、見えないかもしれないけど、これでも結構デリケートなのよ。
仕事は、確かに積み上げてきたものもあるし、男になんか負けて堪るかって気持ちで人一倍頑張ってきたつもりだから、それなりの自信はある。
でも……やっぱりつまづいたりはするものよ」

煙草の灰を灰皿に落とし、目を伏せる横顔を見て、言われてみればその通りかと思う。
つまづかない人間なんていない。

ただ、それを表に出すか、出さないか、二通りのタイプがあるだけで。

だとすれば、樋口さんは私と同じタイプなのかもしれない。
だとすれば……演技みたいな表情が苦手なんて思って、申し訳なかったな。

「……すみません」

水道を捻って、わざと水音に隠しながら言う。

「え? なにか言った?」
「いえ、なにも」
「そう? あ、そうだ。あとでハンディー端末の出金伝票作っておいてくれる? まだ二、三枚あるから明日の日中とか暇な時間帯でいいんだけど」

「わかりました。入金の方はまだいらないですか?」
「時間があったらお願い。そっちはまだもちそうだから来週でもいいし」

ハンディー端末っていうのは、営業が持ち歩く手のひらサイズの機器の名前だ。

そこに、顧客から預かった金額を入力する。それは一時的に集中センターへまとまったデータとして送られる。

営業が出先で預かったお金を流用しないように、顧客の前できちんとデータとして記録する、というのが目的なんだろう。
そのあと、お店に戻ってきてから、そのデータをいじるために必要なのが〝ハンディー端末入出金伝票〟だ。

「わかりました。作っておきます」
「うん。お願い。……ねぇ、参考までに聞きたいんだけど」

洗い終わって水を止めたと同時に言われる。

シンク下の引手にかかっているタオルで手を拭きながら振り向くと、樋口さんが煙草を灰皿に押し付けたところだった。


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