とっくに恋だった―壁越しの片想い―


「でも、だいぶ怒鳴られたりしてたろ? 部屋の中まで聞こえてきたから、うるせーなと思って出てきたくらいだし」

心配そうに瞳を歪めた平沢さんに苦笑いを浮かべる。

「はい。でも、もともと私の言葉が悪かったんだと思います。……真剣な言葉に、心のない言葉で返しちゃったから」

あのときはまだ、人を好きになる気持ちなんて知らなかった。

だから……まるで、業務連絡みたいな口調で淡々と断りの文句を口にした。

感情も温度もなにもない口調と言葉で。

誰かを好きになって告白するってことが、どれだけ勇気のいることかなんて知らなかったから、できたことだけど……今考えれば、あんな断り方はなかった。

私が、ひどかった。

「ごめんなさい。お付き合いはできません」

再度、断りの言葉を告げ頭を下げると、男の人は呆然とした表情を浮かべたあと「わかりました……こっちこそ、すみませんでした」と、気まずそうに目を伏せた。

そのあと、それじゃあ納得できないと、男の人の名前、住所や電話番号、勤務先を聞き出した平沢さんは〝もう二度と付け回さない〟〝危害を与えない〟ということを男の人に約束させて、ようやく場が収まった。

約束を破った場合は、容赦なく勤務先に知らせるというような話をしていたけれど、多分、そんな心配はいらないだろう。

あの人、自分がしたことがいけないことだっていうのは、ちゃんと気付いていたみたいだったから。

万が一、変な気が起きそうになったって、勤務先を知られているというのは、社会人にとってはかなり大きい。

だからもう、この件は収着したと考えていい。
そう判断し、改めて長い息をつく。

< 84 / 185 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop