とっくに恋だった―壁越しの片想い―
時間にすれば、ものの十分だとかそれくらいの出来事だったのに、随分疲れた気がした。
男の人がアパートを出ていくのを確認した平沢さんが私のところまで戻ってきて、心配そうな表情を向ける。
「大丈夫か?」
相変わらずの心配性、世話焼き体質にふふっと笑みをこぼしながら「大丈夫です」と答え、玄関の鍵を開けようとして……そこで初めて手が震えていることに気付いた。
うまく鍵穴に入らずにカチカチと金属音を鳴らす鍵を横からとった平沢さんが、代わりに鍵を開けてくれる。
「ありがとうございます……。さっきも、ありがとうございました」
鍵を受け取り、笑顔で見上げたつもりだったのに。平沢さんはなぜかツラそうに目元を歪めた。
なにかを耐えているような表情を、どうしたんだろうと不思議に思いながら見つめていると、不意に、平沢さんが私の後頭部に腕を回し、ぐっと抱き寄せた。
パーカーを着た胸に、トンとおでこがついたと思った次の瞬間にはギュッと抱き締められていて……驚きから息を呑む。
「そんな顔で無理して笑うなよ」
少し掠れても聞こえる声に言われ、震える声を出した。
吸い込んだ空気から平沢さんの匂いがして、心臓が反応する。
「そんな顔って……?」
「強張ってる。……怖かったろ」
「……別に」
「嘘つくなって。だいたい、なんでこんな帰り遅いの? 最近、毎日じゃん」
「仕事が、忙しい時期なんです。あと、別に怖くなかったです」
私の強がりに気付いた平沢さんが呆れたみたいに笑みをこぼす。
それが、空気の動きでわかった。
……抱き締められてる。
平沢さんのがっしりとした腕に、平沢さんの香りに、胸から響く声に……キュッと胸の奥が掴まれて、泣きそうになるから、ぐっと胸を押し返した。