バナナの実 【近未来 ハード SF】
目を閉じていた彼に“目の前に広がった”という表現は、幻覚でも見たような語弊(ごへい)がある。
厳密には、心なるスリットに映し出された音と視覚イメージの共鳴と表現した方が適切かもしれない。
想像を超えたこの知覚に言葉を失う。
森の中のようにではなく、まさに、森の中。
光や水、暖かさという生命をその内に、コケの衣をまとった自然の中で、独り棒立ちしているのである。
そう感じているだけなのだろうが、聴覚からではもはや、部屋の中だとは断言できない。
ただ・・・、今まで部屋の中にいたのに瞬間移動して、小鳥のさえずる森の中へなど行くことはできないという過去の記憶だけが、体の片鱗(へんりん)に存在する。
次に息を吐くと、森の木陰を足早に駆け抜けてきた心地よい風を、足と腕と顔の肌に感じた。
その感覚に驚き目を開けると、辻は、今まで目を閉じていたことに気付かされる。
そして、先ほど林間を駆け抜けてきたひんやりした風が、エアコンのスイング冷風だったことを知る。
全ての感覚は森の中から時空を越え、福井の部屋に戻された。
それでも、再び目を閉じると、瞬時に森の中に独り佇(たたず)む。
こりゃあ、楽しい~。
辻は無意識ににやけて、心の中でそうつぶやく。
森林の凛とした涼風が、再び頬を優しく撫(な)でる。
目を閉じているにもかかわらず、不思議とその情景を口にすることができた。
森にはコケの生えた大きな岩が所々(ところどころ)顔を覗かせ、落ち葉が一面を覆っている。
夏のような明るい陽の木漏れ日が、こんもり茂る木立の地面に模様を描いていた。