思いがけずロマンチック
始業時刻を過ぎ、事務所のあちこちで電話が鳴り始めるけれど誰も出ようとはしない。
みんな席に着いているのに素知らぬ顔。電話の音の他に聴こえてくるのはボールペンの芯を無意味に出し入れする音と、キーを叩く疎らな音と溜め息と。みんな落ち着きなく事務所の中を見回してみたり、ドアが開くたびに振り向いたり。
『仕事を始めるな、メールを開くな、電話に出るな』
と言い残して部長や課長たちが会議室に篭ってから早一時間。事務所に残された私たちは現実を受け入れることもできず、ただ彼らが戻ってくるのを待つしかない。
時間が経つほどに事務所が淀んだ空気に包まれていく。
そんな人たちをよそに、私はコートを染めたコーヒーのシミを拭き取ろうと必死になっていた。アイスコーヒーだったとはいえなかなか手強い。
「莉子(りこ)ちゃん、おはよう。何を必死になってんの?」
コーヒーの香りをかき消す甘い香りに振り向くと、優しい笑顔の千夏(ちなつ)さん。空気感たっぷりの艶やかな髪を肩越しに弾ませて、今日も女っぷり抜群だ。