今、鐘が鳴る
そうして2月12日の朝、ケーキの箱を抱えて新幹線に乗った。

静岡駅で碧生くんと待ち合わせ。
碧生くんはいつも通り、新幹線ホームまで迎えに来てくれていたけれど、その顔は少しお疲れモードだった。

「睡眠不足?大丈夫?試験勉強、大変だったの?」
「あ~。一昨日、試験が終わって~、一週間、由未と俺に放置されて拗ねてたやすまっさんの遊びに付き合って、ちょっと寝不足。あの人、元気だよね~。」

なるほど。
「せっかくなら謡の会のお稽古をつけてくださったらいいのに、相変わらず、それはしてくださらないの?」

「ねえ。でも舞って見せてくれたよ。」
……あら、珍しい。

「『安達原(あだちがはら)』、難しくて。やっぱり俺にはまだ早いんだろうね。」
来週、葵くんは素人会で仕舞を舞う。

同じ会で恭匡さんは、約10年ぶりに復帰してたった1年で『石橋(しゃっきょう)』の「お披(ひら)き」だそうだ。
もともと子方で玄人さんの舞台に立ち、師匠から職分になることを勧められていた人ではあるが、それにしても早過ぎる気がする。

……師匠が恭匡さんを能楽の道に引っ張りたいのだろうと、母は推測して笑っていた。
ともあれ、「お披き」は生涯に数える程しかない大切な節目なので、私達も観に行く予定をしている。

車に乗り込んですぐ、碧生くんは私の焼いたケーキの箱を開けて喜んでくれた。
「すごいじゃん!百合子、こんな技を身につけたんだ!」

そう言って、パクーッと大きな口を開けて食べた。
「……うん、うまいよ。凝ってるね!フォンダンショコラか!温めてから食べるべきだった?」

そう聞かれて、私は青ざめた。
「食べないで!ごめん!生焼けになっちゃったみたい!……普通のガトーショコラのはずなの……」

碧生くんは一瞬固まったけれど、無言で全部食べてくれた。
……うれしいより、恥ずかしくて悲しくて惨めだった。



静岡競輪場のすぐそばには、プラモデルで有名なメーカーのビルがあって、碧生くんはやたら興奮していた。
1レース前に到着したが、特観席の残り席数が少なくて驚いた。
場内も賑わい、今まで閑散とした競輪場しか知らなかった私は面食らった。

水島くんは4レースに出場した。
大舞台でも臆せず逃げた水島くんは2着に残った。

金網に張り付いて喜んでいると、中沢さんが近づいてきた。
「あれ~。久しぶり。ごきげんよう、お嬢さま。」
「ごきげんよう。水島くん、すごいですわね。2着!車券、取られましたか?」

中沢さんは相変わらず飄々としていたが、うれしそうに笑った。
「もちろん!配当もいいしね~。さすがに明日は勝てないだろうけど、負け戦でもう一度穴を空けてくれることを期待してるよ。」

……シビアだわ、中沢さん。
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