今、鐘が鳴る
泉さんは、嵐のようにけたたましく去って行った。
私の心に大きな爪痕を残して。

「ただいま戻りました。」
「おかえりなさい……あら、酔ってるの?」

足元がふらつき、頬が紅潮しているのを、母にそう指摘された。
「そうかもしれません。楽しいお酒でした。」
「……ほどほどに、ね。」

自室に入り、着物を脱いだ途端、涙が堰を切ったようにあふれ出た。
なんなの?あの人。
信じられない。
宇宙人。
人でなし。
性格悪いにも程がある。

……なのにどうしてこんなに……苦しいの。
連絡先も交換していない。
もう逢えないの?
こんな……こんなにも人を翻弄して……放り出すの?
ひどい。



その夜から私は独りで悶々と過ごした。
大学の講義が本格的に始まると、ますます苦しくなった。

キャンパスの最寄り駅から30分足らずで、泉さんの練習する競輪場に行ける。

……毎日葛藤し、誘惑に負けて、何度も近くまで行っては逃げ帰った。
ストーカーにすらなれない。
自分でも何がしたいのかわからない。
一目、泉さんに逢いたかったのだろうか。
逢っても、つらいだけなのに。

今年はろくにお花見もできないまま、桜はあっという間に散ってしまった。




4月の3週め。
武雄記念(G3)に、泉さんが出走した。
便利なもので、PCでもスマホでもリアルタイムでレース映像が見られるので、私は4日間ドキドキ観戦した。

泉さんは、初日特選で4着。
2日めの二次予選で1着。
3日めの準決勝で3着。
決勝戦は2着だった。

……土日の準決勝と決勝戦には、本気で駆け付けたくなったけれど……やはり行くことはできなかった。
母に言い訳できないし、現地で中沢さんに逢うのも気まずいように思えた。

映像で見る泉さんは、インタビューや脚見せでは飄々としているのに、レースが始まるとギラギラとした炎が見えるように感じた。

かっこいい……そんな風に思ってしまう自分に気づいて苦笑する。
重症かもしれない。

泉さん。
もはや、あの夜のことを夢のように思い始めています。

それぐらい、遠い世界の人。
関わり合いになることのない人。

……早く忘れなきゃ。




土曜日の午後。
自宅でゆっくりしていると、義父の会社の受付から電話が転送されてきた。 

電話に出た母が、怪訝そうに私に聞いた。
「水島さんという男性からお電話ですって。ご存じ?」
「はい。……碧生くんのお友達です。」
私は母にそう説明して、受話器を受け取った。

「もしもし。百合子です。」
受付のかたにそう言うと
『では、おつなぎします。』
と、外線とつないでくださった。

「お待たせいたしました。橘です。水島くん?どうされましたか?」
母の耳を意識しつつ電話に出た。

『俺や。泉。水島は岐阜で走っとるわ。』
泉さん!?
心臓が口から飛び出してくるんじゃないか、ってぐらい驚いた。
母に気づかれないように、必死で自分を殺す。

「ごきげんよう。」
あ、変なタイミングで挨拶入れちゃた。

パニクってるわ、私。
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