今、鐘が鳴る
用意したお部屋に碧生くんを案内する。
階段を登りながらお礼を言った。

「母に優しくしてくださって、ありがとうございます。碧生くんが来るの、本当に喜んでたのに、旅行にまで誘ってくださって。」

「あれ?また敬語に逆戻り?」
碧生くんに指摘された。

本当だ。

「優しくしてあげてるんじゃなくて、自然と優しい気持ちになるんだよね。本当に俺、百合子のお母さん、好きなの。かわいくて。」
かわいい?
あの取り澄ました母が?

「碧生くんて、心が広いのか、好みが変わってるのか……。美人でも、冷たくてイケズで有名なのに。」

碧生くんはニヤッと笑った。
「それって、百合子のこと?」

失礼な!
ちょっとむくれた私に、碧生くんはウインクした。

「自覚してないみたいだけど、百合子はおばさまそっくりだよ。だから、俺にはおばさまも可愛くてしょうがない。おばさまが喜んでくださると、俺も本当にうれしい。百合子にどう接すれば喜んでもらえるかの参考にもなるし、ね。」

……ああ、碧生くんだ。
メールや電話では伝わりきらなかった碧生くんのパワーに私は自然と微笑んだ。

心の壁が溶け始めた。

「出石まで歩くのはやめたの?」
城崎への旅行ということは、出石にも寄るのかしら。

「覚えてくれてたんだ。感激!」
ふうっと碧生くんの瞳が優しい光を帯びた。

「そりゃ……。衝撃だったもの。今回つきあわされるのかと怯えてたのよ。」
「へえ。心づもりしてくれてたの?うれしいな。それじゃ、冬にでもチャレンジしてみようか?」

手を振って慌てて拒否して見せた。
碧生くんは、そんな私をじーっと見つめてから言った。
「百合子、綺麗になったね。痩せたというか、やつれて。……恋した?」

ドキンと心臓が飛び跳ねた。
何か言わなきゃ、と思うのだけれど、言葉が出てこない。
母に嘘はつけても、碧生くんには通用しない気がした。

でも、何を言えばいいのだろう。
碧生くんに止められたのに一人で競輪場に行って、泉さんと……。

とても言えない。


碧生くんは、ため息をついた。
「言いたくないことは言わなくていいよ。俺には問い詰める権利も怒る権利もないんだから。」

突き放されたように感じて、胸が痛んだ。
泣きそう。

「でもね、百合子。全然幸せそうに見えないよ。むしろつらそうで、心配。」

碧生くんは悲しい目で私を見た。
……つらいばかりじゃなかった。
でも、確かに幸せな恋愛でもない。

奈良での数時間は夢のようだったけれど、結局、それっきり。
連絡先を交換したけれど、何の音信もない。
もちろん私からも何もしていない。

不倫だとわかっている以上、私にはどうにもできるものでもなかった。
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