月夜に散歩
月が綺麗ですね─告白─
沈んでいた意識の中に、突如として歓声が飛び込んできた。はっと顔を上げれば、燃えるような夕陽の色が、背の高い書架の並ぶ図書室を染め上げていた。
もうこんな時間か、と手にしていた文庫本をぱたりと閉じる。
窓の外は賑やかで、そう言えば今日は、野球部の練習試合が行われていたのだったか、と思い出す。この歓声から察するに、我が校のチームに軍配が上がったのかもしれない。
そのことに思い至ると、ふと、野球部のクラスメイトの顔が頭を過ぎった。
スポーツマンで、いつもクラスの中心にいるような賑やかな彼は、休み時間になれば本ばかり開いている私とは対極の位置にいた。
彼と関わることなどないだろうと思っていたけれど、人生何があるか分からないものだ。彼は、ひと月前に事故に遭った。道路に迷い込んだ猫を車から庇ったために。
その猫が、私の愛猫だったのだ。
野球部のエースを怪我させてしまった申し訳なさから、登下校の送り迎えは我が母が買って出て、ついでに私も一緒に登校していた。教室の移動などの時も、私が荷物持ちとなって傍にいることが増えた。
彼と関わることなど、ないと思っていたのだけれど。ひと月も近くにいれば、そこそこ仲良くなるものだ。今は私がオススメの本を紹介したり、彼から軽いストレッチの仕方を習ったりと、そんな関係。
人の縁とはまったく不思議なものである。
帰り支度をしていると、図書室の入口からひょこっとその彼が顔を出した。薄汚れたユニフォーム姿の彼は、もう足を引き摺っていない。
「御堂さん、今帰り?」
「ええ。塚本くんも?」
「うん、部活終わったから。一緒に帰らない?」
「ちょっと待っていて。この本、返してしまうから」
彼はもう足を引き摺っていないけれど、なんとなく、一緒に帰る。温もりを失ってしまった夕陽を背にしながら、並んで歩いていく。
横目に見る彼は普通に歩けている。もう大丈夫そうだ。そろそろ別々に帰ってもいいよね、と言われるかもしれない。もしくは、こちらから言うべきなのかもしれない。
だって、本当は嫌だけれど、無理をして私に贖罪をさせてくれていたのかもしれないから。
だって、他に好きな人がいて、私と一緒にいるのは迷惑かもしれないから。
だから、言うべきなのかもしれない。
「御堂さん」
迷っている私に、彼が声をかけてくる。
「はい」
「その。……つ、月が、綺麗、ですね」
唐突にも思えるその言葉に、空を見上げてみる。けれども、うっすらと紫色に染まりだした空に、まだ月は出ていない。
「見えませんが」
首を傾げながらそう言うと、絶望的とも取れる、妙に情けない顔をした彼が目に映った。
「あ、いや……うん、そう、なんだけどね」
しどろもどろになる彼に首を傾げていた私は、はっとその意味に気づいた。
「もしかして、夏目漱石ですか」
彼はバツが悪そうに頷く。
「すみません。塚本くんが夏目漱石を読んでいるとは思っていなかったので、気付けませんでした」
「いや、うん、読んだことはないんだ。けど、御堂さんは好きでしょう」
「はい」
「だから、この方がいいかと思って。……あああああ! これなら正攻法で行った方が良かった!」
急に叫んで、短い頭を掻き毟る彼に、嫌でもその意味が伝わってきた。
『月が綺麗ですね』
つまり、その、私のことが。
「……塚本くん」
声が、震えた。指先は冷たくなっていくのに、何故か顔だけ熱い。
それでも、私に合わせて言葉を選んでくれた彼に、胸がじんと熱くなったから。だから、私は。
「その綺麗な月を、あなたとずっと見ていたいです」
その答えにきょとんと目を丸くした彼の顔を見て、私は思わず笑ってしまった。
【月が綺麗ですね】
テーマ 『告白』
もうこんな時間か、と手にしていた文庫本をぱたりと閉じる。
窓の外は賑やかで、そう言えば今日は、野球部の練習試合が行われていたのだったか、と思い出す。この歓声から察するに、我が校のチームに軍配が上がったのかもしれない。
そのことに思い至ると、ふと、野球部のクラスメイトの顔が頭を過ぎった。
スポーツマンで、いつもクラスの中心にいるような賑やかな彼は、休み時間になれば本ばかり開いている私とは対極の位置にいた。
彼と関わることなどないだろうと思っていたけれど、人生何があるか分からないものだ。彼は、ひと月前に事故に遭った。道路に迷い込んだ猫を車から庇ったために。
その猫が、私の愛猫だったのだ。
野球部のエースを怪我させてしまった申し訳なさから、登下校の送り迎えは我が母が買って出て、ついでに私も一緒に登校していた。教室の移動などの時も、私が荷物持ちとなって傍にいることが増えた。
彼と関わることなど、ないと思っていたのだけれど。ひと月も近くにいれば、そこそこ仲良くなるものだ。今は私がオススメの本を紹介したり、彼から軽いストレッチの仕方を習ったりと、そんな関係。
人の縁とはまったく不思議なものである。
帰り支度をしていると、図書室の入口からひょこっとその彼が顔を出した。薄汚れたユニフォーム姿の彼は、もう足を引き摺っていない。
「御堂さん、今帰り?」
「ええ。塚本くんも?」
「うん、部活終わったから。一緒に帰らない?」
「ちょっと待っていて。この本、返してしまうから」
彼はもう足を引き摺っていないけれど、なんとなく、一緒に帰る。温もりを失ってしまった夕陽を背にしながら、並んで歩いていく。
横目に見る彼は普通に歩けている。もう大丈夫そうだ。そろそろ別々に帰ってもいいよね、と言われるかもしれない。もしくは、こちらから言うべきなのかもしれない。
だって、本当は嫌だけれど、無理をして私に贖罪をさせてくれていたのかもしれないから。
だって、他に好きな人がいて、私と一緒にいるのは迷惑かもしれないから。
だから、言うべきなのかもしれない。
「御堂さん」
迷っている私に、彼が声をかけてくる。
「はい」
「その。……つ、月が、綺麗、ですね」
唐突にも思えるその言葉に、空を見上げてみる。けれども、うっすらと紫色に染まりだした空に、まだ月は出ていない。
「見えませんが」
首を傾げながらそう言うと、絶望的とも取れる、妙に情けない顔をした彼が目に映った。
「あ、いや……うん、そう、なんだけどね」
しどろもどろになる彼に首を傾げていた私は、はっとその意味に気づいた。
「もしかして、夏目漱石ですか」
彼はバツが悪そうに頷く。
「すみません。塚本くんが夏目漱石を読んでいるとは思っていなかったので、気付けませんでした」
「いや、うん、読んだことはないんだ。けど、御堂さんは好きでしょう」
「はい」
「だから、この方がいいかと思って。……あああああ! これなら正攻法で行った方が良かった!」
急に叫んで、短い頭を掻き毟る彼に、嫌でもその意味が伝わってきた。
『月が綺麗ですね』
つまり、その、私のことが。
「……塚本くん」
声が、震えた。指先は冷たくなっていくのに、何故か顔だけ熱い。
それでも、私に合わせて言葉を選んでくれた彼に、胸がじんと熱くなったから。だから、私は。
「その綺麗な月を、あなたとずっと見ていたいです」
その答えにきょとんと目を丸くした彼の顔を見て、私は思わず笑ってしまった。
【月が綺麗ですね】
テーマ 『告白』