月夜に散歩
その音は人を狂わせる─糸─
 白いスポットライトを浴びてステージに立つ、美貌の青年が静かにヴァイオリンを構える。その立ち姿を見て無意識に呼吸を止めた。いつも柔らかな笑みを絶やさない、穏やかな彼からは想像も出来ない、何か気迫めいたものを感じたからだ。

 演奏曲はカミーユ・サン=サーンス作曲、『序奏とロンド・カプリチオーソ』。

 難易度はそこそこ高いが、エリザベート王妃国際音楽コンクールで第一位を獲得した彼には造作もないはず。さて、どんな演奏を聴かせてくれるのか。聴衆の期待がステージ上の彼に集まる中、静かに曲が始まった。

 スペイン音楽の影響を感じさせるピアノ伴奏が先行し、情熱を秘めたヴァイオリンの音色がその上を撫でるように続いていく。陰鬱で物悲しげなその旋律は、誰しもが持つ心の隙間を埋めるが如く、細く長い糸となって鼓膜に触れてきた。

 緩やかに、そっと。

 寄せては返す、穏やかで心地よい音の波に目を細めていると、低音のトリルから一気に情熱的な主部へと連れ去られた。

 力強く弦の上を踊る弓と細く長い指が紡ぐ激しい旋律に、身体の中心、心臓を、鷲掴みにされたかのような衝撃を受けた。そして知るのだ。そっと触れるだけだった序奏が、実は獲物を捕らえるべく張り巡らせた蜘蛛の糸だったのだと。

 まんまと罠に嵌められた獲物は、次々に襲いかかってくる情緒たっぷりの音に絡め取られ、逃れることはもちろん、瞬きすら忘れさせられた。

 絡み合う8分の6拍子と4分の3拍子。華麗な弓捌き。麗しい青年の頬から滴り落ちていく汗の雫。それらすべてにに心が締め付けられて息が出来ない。

 苦しい。

 狂想曲(カプリチオーソ)という名の通りに、自由に駆け回るヴァイオリンは、時に激しく情熱をぶつけ、時に花影からそっと愛を囁いて乙女に夢を見せる。

 その移り変わる気まぐれな告白が更に心臓を締め付け、ただただ苦しい。けれども何故だかその苦しみをもっと、と切望してしまう。

 もっと、もっと、貴方の音で縛り付けて。

 もっと、もっと、旋律に痺れさせて。

 もっと、もっと──。



 ラストの軽快で華やかなコーダで曲が終わると、ホール中がなんとも言い難い余韻に包まれた。

 その直後、割れんばかりの拍手が鳴り響いた。スタンディングオベーション。誰もが立ち上がり、彼に賞賛の拍手を送る。それで絶対的王者の支配から解き放たれた私は、宙に融けていった音に幾許かの寂しさを覚えつつ、他の聴衆たちと共に彼に拍手を送った。

 本当に、信じられない。

 これがヴァイオリン生命を絶たれるほどの怪我を負い、三年ものブランクを乗り越えてきた人の演奏なの。

 技巧的なことなんてまったく見ている余裕はなかった。私はただの聴衆となって、彼の音に溺れただけだ。きっと他の聴衆も同じだろう。

「いい記事が書けそう」

 そう呟きながらも、私の心はすでに次の演奏曲を求めていた。早くあの音に縛られたい。そう、渇望する。








【その音は人を狂わせる】

テーマ 『糸』





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