カフェ・ブレイク

兼業主婦

9月に入ると、私は公立高校の保健室で養護教員として勤務し始めた。
「もっと年輩の女性で決まってたんですけどね、ご主人が転勤になったとかで仕方なくあなたにお願いすることになりましたが、くれぐれも問題を起こさないようにお願いしますよ。教職員とも生徒とも保護者とも。」
……あからさまに、女性教頭先生は私を歓迎していなかった。

勤務地は同じ横浜市内ではあるが、家は西の端、学校は東の端にあった。
むしろ夫の勤務地に近かったので、最初のうちは夫に送ってもらって出勤した。

しかし、誰かに見られていたらしく、教頭先生からお叱りを受けてしまった。

家族の送迎なんて別に何の問題もないはずなのに。
保健室で、一人で悔し泣きしていると、ひょろりと背の高い痩身の男性がやってきた。

「や。これは失礼。……またあの女狐に何か言われましたか?」

授業中なので気を抜いていた私は、慌てて涙を拭った。
「いいえ。大丈夫です。こんにちは、えーと、数学の先生でしたよね?どうかされましたか?」
「中沢です。少し身を隠させていただけますか?」
「は?」

中沢先生は、私の返事を待たず、パーテーションの向こうのベッドに入ってシーツを頭からかぶってしまった。

……隠れる?

よくわからないけれど、業務日誌の入力を始めようとPCを立ち上げていると、しばらくして音楽教諭が顔を出した。

「あら、こんにちは。どうされましたか?」
そう聞くと、彼女は曖昧な会釈をしてすぐに去って行った。
巻髪が揺れる後ろ姿がかわいらしかった。

首をかしげていると、シーツをかぶっていた中沢先生が起き上がった。
「ふー。ありがと」

何?意味がわからない。

「今の、音楽の先生から逃げてらしたんですか?」
そう聞くと、中沢先生はニヤリと笑った。
「気のいいお嬢さまなんだけど、頭があまりよくないというか。遊びだと言ってたのに諦めてくれないんですよ。」

……少し胸が痛んだ。

「中沢先生のことを本気で好きになってしまったんでしょうね。お気の毒。」
ちょっと睨んでそう言うと、中沢先生は
「おや?」
と、私を改めて見た。

「……あなたも、彼女と同じタイプの、無垢な恵まれたお嬢さまだと思ってましたが、少しは話せるかたのようですね。」

「無垢、ではないです。かと言って遊んでもませんけど。……中沢先生とはお話が合うと思いませんわ。私は、恋にひたむきな乙女の味方ですから。」
冗談のつもりはなく本気でそう言ったのだが、それが中沢先生のツボに入ったらしい。

中沢先生は、クスクスと笑い出した。
……端正でスマートなのに、何て言うか、退廃的な空気を身にまとった不思議な男性だ。

「なるほど。その調子で生徒の恋愛相談になんか気軽に乗っちゃダメですよ。上手くいけば一時的には多少感謝されるかもしれないが、そんなことほとんどないと思ったほうがいい。逆恨みされるのが関の山だ。……せいぜい、失恋で傷ついた生徒を癒すだけにしときなよ。あ、でもそれも女生徒ね。男子生徒に優しくすると、押し倒されちゃいますよ、夏子さん。」
< 70 / 282 >

この作品をシェア

pagetop