カフェ・ブレイク
「あ、でも!その前に、旦那、ちゃんとケジメつけときなよ。けっこうやばいパラノイア系だよ。」
帰り支度を始めた中沢先生が、わざわざビシッと私の鼻面を指さしてそう言った。

「パラノイア?でも、あれっきりですよ?」
ここに引っ越して来てからは、何の音沙汰もないし、影も形も見えない。

でも中沢先生は顔をしかめて手を横に振った。
「海外出張でしばらく留守してたのと、ママンに夏子さんにもう近づくなって釘を刺されたらしいよ。でも、未練たらたら!」

ママンって……。

「……って、なんで中沢先生がそこまで詳しくご存じなんですか?」
「だって友達になったもん。旦那、夏子さんに近づけないから、僕の周辺をうろついてさ。可哀想だから、夏子さん情報を教えてあげたらご馳走してくれるようになったの。いい人だよね、ほんと。マザコンでパラノイアのストーカーだけど。」

はあ!?
ちょっと待って!
それって……中沢先生は、私のネタを夫に売ってたんじゃないの?

まったくこの男どもは……。



2月の終わり頃、やっと待ちに待った内定通知が届いた。
3校の試験を受けて、合格したのは1校。
1年間の臨時職員枠での採用で、東京のマンモス私立学園に拾ってもらえた。

……関西には帰れない、か。
まあ、仕方ない。
拾ってもらえたところで、1年間がんばらなきゃ!

中沢先生からは、その後、何の連絡もない。
のたれ死んでなければいいけど……。


引越準備を始めながら、ふと不安になった。
4月からお世話になる学園には旧姓の大瀬戸で申し込んだが、ちゃんと郡(こおり)の籍から出られたのだろうか。
恐る恐る戸籍抄本を取ってみると、残念ながらまだ私は郡栄一の妻だった。

……どうしよう。
ううん、どうにかしなきゃ。
私は短い逡巡のあと、決意する。

区役所の長椅子で足を組んで座り、非通知設定で夫に電話をかけた。
『はい。』
ひさしぶりに聞く夫の声は、何だか知らない人のようだった。

「ご無沙汰いたしております。夏子です。」
『……』
夫の反応を少し待ってみたけれど、何も聞こえてこなかった。

話したくないのかしら。
まあ、それも、いたしかたない。

「あの、今、区役所で確認したのですが、栄一さん、離婚届をまだ提出してらっしゃらないようですが……」
『区役所!?再婚するのですか!?』
夫は真剣に焦っていた。

「いえいえ。そんなことは一切ございません。……ただ、4月からの勤務先に旧姓で申し込んでしまったので、ちょっと困ってます。」

私がそう言うと、夫は明らかにホッとしたようだ。

……まだ私に未練を残しているのね。
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