カフェ・ブレイク
夫は、静かに言った。
『では、賭けをしませんか?私たちはお互いに4月からの勤務地を知りません。……もし2人が通える範囲の場所だったなら、とりあえず同居しませんか?』

賭け?

「それ、私には何のメリットもありませんけど。」
一人暮らしの気楽さを覚えた私は、けんもほろろにそう言った。

でも夫は狡猾な条件を出した。
『離婚してさしあげますよ。』

どういうつもり?

「離婚しても、同居したいんですか?……どうして?」
『名より実を取ろうと思います。それに一緒にいれば情もわくでしょう?夏子さんは優しいから。』

……私は、言葉に詰まった。
夫が何を考えているのかわからないまま、迂闊な返事はできない。

『家賃も光熱費も食費も私が払います。夏子さんは朝夕の食事を作ってください。寝室は別でけっこうです。』

……いい条件だわ。

「盗聴器とか、電話とか、スカイプとかで、お義母さまに会話筒抜け、とか、もう嫌ですよ?」
もちろん冗談のつもりもなく、真面目にそう言った。

『はい。というか、実家には内緒にするつもりです。隠れ蓑に、私は官舎を借りるつもりです。もちろん夏子さんと住まう部屋の鍵はもう絶対に渡しませんし、以前のように、留守中に勝手に家に入ることもありません。』

夫の言葉にギョッとした。
……留守中に勝手にうちに入ってらしたの?
夫の実家の裏に住んでた頃?
全然気づかなかった……。
知れば知るほど、姑に対してうんざりしてくる。

「ところで、今の条件って、たまたま2人の職場が近かった場合、なのよね?とても通えないほど遠かったら?離婚してくださらないの?」
そう確認すると、夫は笑った。
『これは取引じゃなくて、賭けですから。リスクは必要でしょ?お互いに。私たちのご縁がどの程度のものなのか、試してみませんか?』

賭け……。
そう言われても、自分にとってどういう形が勝ちで、どういうのが負けなのかも、私にはよくわからなかった。

とりあえず、遠ければ当然別居だけどすぐに離婚してもらえない……しばらくしてから離婚の申し立てが必要になるのだろう。
近ければ、同居だけど離婚はしてもらえる。
そんなところか。

「わかりました。」
ホッとしたらしく、夫の声がやわらかく変わった。
『よかった。では答え合わせとまいりましょうか。夏子さんは4月からどちらへ行かれることになりましたか?』

「東京です。23区の西端ですが。世田谷。」
すると、夫はホーッと大きく長い息をついた。
『私も東京の区内です。北区。残念ですが、これで夫婦じゃなくなってしまうんですね。』

私もまた、ドッと脱力した。

……本当に離婚してくれるんだ。
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