恋より先に愛を知る
リビングを
ピリピリした静寂が包んだ。
私はお母さんをじっと見つめて、
目を離さなかった。
「それでも行きたいの?」
お母さんの言葉に、
私はゆっくりと頷く。
選べないよ。
選べないけど、
私はどうしても行かなくちゃいけないの。
ピアノはいつだって勉強できる。
だけどこの公演は?明日しかやらないんだよ?
後悔のないように選ぶとしたら、
私は迷わずこっちを選ぶよ。
たとえそれが馬鹿だって言われても、
怒られても、私は後悔のないほうを選ぶ。
お母さんは私から目を逸らして、
無言でリビングを出ていってしまった。
お父さんが静かに口を開いて、
そうしてこう言った。
「明日観に行ったら、前に進めるのか?」
私のほうを見ずに、お父さんは床をじっと見つめていた。
「彼にたとえ会ったとしても、
泣かないでいられるか?」
それはわからないよ。お父さん。
だって、彼は私の心を良くも悪くも乱すのよ。
波紋のように広がって、私いっぱいを満たしていく人よ。
予想のできない人なんだもの。
それでも私は、
お父さんを納得させたくて頷いた。
お父さんは私を見て、そうして静かに言った。
「それなら、お父さんが送っていく。
一人では行かせられない。それでいいか?」
お父さんの視線は、
首元にさがったリングへと落ちていた。
その言葉はお父さんの、
私を精一杯思いやった言葉だってことを、
私はすぐに理解した。
何を言われても泣かないように我慢をして、
そのために爪を立ててつけた手の傷が、
今になって痛み出した。
赤く腫れあがったその傷は、
きっと私の一歩踏み出した証。
その痛みが、
私の一歩を確実に実感させてくれた。